手の平の中に、世界はあった。

ガラケーって言葉も無かった頃の携帯電話ゲームとか昔のゲームとか、他なんやかんやを書き残しておきたい、そんなブログです

『【懲役太郎】は人生に効く』というzipを1回ちゃんと解凍しとこう、という話

 

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 ゲームブログと銘打っておきながらこのように【懲役太郎】を語り続けてもう今年も11月に入ってしまった。「だというのにこれだけ書いてまだ足りないか?」と問われれば逆にお伺いしますが足りる日は来ますか????と言わざるを得ない。【懲役太郎】は実質宇宙でありいくら探求を重ねてもキリがないほどだと思っている。

 

はい。

今回はこのように『実質宇宙』だの『人生に効く』だの便利な圧縮言語に頼った手動BOT状態を一旦止めて、せっかく文章にして語彙を尽くして書く事がちょっとできる身なのだからきちんと具体的にどこにどのように効いてるのか・効くのかというところを言語化していこう、という趣旨の話である。

丁度、この話をするにあたって使い勝手の良い単語も今年流行ったのでそれを交えつつ展開できればと思う。先に言っておくと今回もうわぁ、って位長いんですがお時間あればお付き合いください。いつも読んでくれる人ありがとうございます。

 

 

 

 前段として:「自己肯定感」と「生きてるだけで褒めてくれる○○BOT」の流行

 今年ツイッターで目にする機会があった「自己肯定感」という単語がある。読んで字のごとく自己を肯定する感情のことであり、今年8月ごろにツイッターでバズったようでありすっかり人々の意識に定着した。

「自己肯定感」がこれほど広まったのは世の人々がそれだけ興味を持ったからであり、もっと言えば人々がそれを得たいと願い、世間で慢性的に不足しているものであると言ってもよいだろう。その証左として2016年にツイッター界で爆発的に生産され今も稼働し続けている数多の「生きてるだけで褒めてくれる○○BOT」の存在がある。

今振り返って考えればあれらのBOTは

『今のままの、そのままのあなたで良い』

『今あなたが生きているというだけで立派』

『あなたは生まれてきて良かったし此処に今存在していて良い』

という「自己肯定感」をサポートするのに優秀なツールだったのだろう。

そしてこのBOTはさっきも書いたように色んなジャンルのキャラクターのガワをかぶされて爆発的に生み出され、4桁・5桁のフォロワーを得るBOTがザラに存在するようになった。

「自己肯定感」の単語が広まる前から、この感情が潜在的に不足・欠落している人々がいかに多かったかがわかるというものだ。数年前からツイッターに生息する人間達は【今ここに存在しているありのままの自分】を認めて欲しかったんである。

そして今年「自己肯定感」の言葉が多大なる共感をもって広められた以上、BOTではこの感情で満たされたいという人間達の需要に真に応える事は叶っていないと言えるだろう。満たされているのなら「私もそう」ではなく「私もそうだった」になるはずであり、過去のものになった感情ならばここまで人々が共有して広がってバズる事にはならないはずなのだから。

 

【懲役太郎】を通して自分を再評価する

 この前置きを踏まえた上で先に結論から言ってしまうと【懲役太郎】というコンテンツ・存在は「自己肯定感」に覿面に効く。何故ならば先述したような『今あなたが日々を生きているだけで充分立派なことだ』という言葉は懲役太郎を通して発せられると上っ面を滑るような軽いものではなくなるからだ。

かの【ゴルンノヴァ総統】が以前に”【懲役太郎】は濃厚な「しくじり先生”と例えた発言をした事がある。これを思い出す度にちょっと罪悪感に駆られるような気分になるが正直これは部分的に正しい。失敗した者を見て「自分はそれよりまだマシだ」と安心する、そういう形の楽しみ・娯楽は実在し、そういう方向性で視聴するにこれほど合うコンテンツも無い、【懲役太郎】をそんな存在として扱う層もあることはフェアに、客観的に評価せねばなるまい。『前科三犯』という社会的に思いきりしくじっている者を比較対象にすればほぼ大体の人間は犯罪を犯すことなく社会を生きられているので前科・前歴のある人間よりは自分は偉いし立派。そのような方向性での「自己肯定感」の獲得を助けられている面もあるだろう。

 が、再三申し上げたく思う。そのように下に見て安心する楽しみ方で終わってはまだ早い。まだ浅い。その程度の効果でしかないなら『人生に効く』などとデカい事言うわけがない。そこからもう1段思考を進めてこそ意味がある。

嘆かわしいことに【懲役太郎】に対して「犯罪者風情が」などと心無い言葉を書き込む輩が居る。これはまったく彼という存在とコンテンツを理解していない者の言葉だ。

その"風情が"などとインスタントに見下した相手と、翻って自分の生活・有り様を比べて考えて、はたして自分が全てにおいて優越しているなどと本当に思えるだろうか?

ここにまで考えが至ると途端に効いてくるんである。バーチャルかつ模範囚なので所々現実の刑務所より融通ついてるなーという部分はあるにせよ、太郎さんは囚人である。

刑務所の食事について調べた事はあるだろうか。囚人より良い食事を日々摂れているだろうか?何となく面倒だしとジャンクなフードばかりで済ませてないか?

懲役太郎アカウントの起床点呼は朝6時30分である。囚人は朝も早ければ夜も早い。やってくる明日に抗ってダラダラ夜更かしして、訪れた今日から目を背けてダラダラ遅起きを繰り返してはいないか?

太郎さんは何紙か新聞を取って舎房の中で読み込み、生放送で話すためのネタをしっかり練って仕上げていつも臨んでいる。シャバの自分はどうだろう。日々のニュースをただ右から左に流しているだけで終わっていないか?

 

 「生きてるだけで褒めてくれる○○BOT」で人々が癒されながらもそこから真に救われなかったのは、『今のあなたのままで良い』も確かに大事だがそこから先を促す言葉をBOT達は踏み込めなかったから、という点もあったんじゃないかと思っている。

『今シャバを生きている皆さんは充分立派ですよ』という太郎さんのメッセージを受け取った上で、「でも本当にそうだろうか?」「もっと自分は・世界は良くしていけるのではないか?」を自力で気付き至ることも実はちょっと遠回しではあるが促されているんである。

『前科三犯・893番』という彼を通して自身を顧みると、結構シャバの人々、至らない所が見えてくるのではないだろうか。そしてその至らないところが分かれば「じゃあまずそこをちょっと改善してくとこから始めてみるか……」というとっかかりに手をかけられるはずだ。

そうしてきちんと手の込んだ食事を摂ったり、きっぱりと夜更かしを切り上げ布団に入ったり、ちょっとしたニュースに考えを巡らせたりしていく事で人間というのは「ちゃんとできた、できてて偉い」と自己を肯定する感情を心の奥底までしっかり響かせ浸透させる事が叶うのではないか?

結局、自分自身が自分を認められる何かがなくては根本的解決にはならない。その根本的解決に至るための口火を切る理由づけ、自分を小さく小まめに褒めるための手がかりに【懲役太郎】という存在は非常に効果的であるのだ。

 

現代における夢の成就の難易度と【懲役太郎】

 【懲役太郎】は失敗者であり成功者でもある。『前科三犯・893番』である彼は50代のおじさんにしてVtuber界においてチャンネル登録者数約8万という(まだまだこんなもんで収まる御仁じゃないでしょう、という気はすれど)実績を持ち、『JODY BOY』なるアパレルブランド(https://www.jodyboy.shop/)とのお仕事案件まで取りつけるに至った。

 『人生何が起こるかわからない』

『何をするにも遅すぎるということは無い』

『諦めなければ夢は叶う』

実際に現在進行形で成し遂げている彼がこれらの言葉を口にするとそれはもう途方も無い説得力なんだよな、と思い知らされるばかりだ。そんな事が叶うもんなんだな、と感動するような事柄をどんどん叶えていく懲役太郎さんと協力者・俺太郎先生の向上心、志、バイタリティには圧倒されるし日々感服している。とてもすごい。

すごいが、ここもだ。ここももう少し掘り下げて考えていくと、今は太郎さんのような過去を持つ人であろうとも、がむしゃらに誠実に頑張っていったら世界に爪痕残せるようなすごい事を成し遂げ、証を打ち立てる事ができる。それほど今の時代というのは何だかんだ言われながらも自由であり、色々な事のハードルが下がり、手が届きやすくなっている。

【懲役太郎】はそれを体現し、可視化しているのだ。彼を見ていると、どうだろう。とびっきりのスターダムとまでは言わなくても、遠い日に淡く抱いて諦めた夢のひとつふたつ、今だったら案外やってみたら叶うかもしれないと思えてこないだろうか?

 この主張は今まさに、自分が裏付けている、裏付けようとしている道半ばである。

かつて自分は何かしらの『ライター』なるものになりたかった。なりたかったが文章を書くことで仕事になり飯が食えているプロの職業ライターを見て『なりたいけど無理でしょ』とやりもせず諦めていた。が、【懲役太郎】に触れるうち彼の言う"時代の波に忘れ去られていく"ものに思い当たるところがあり、外からの評価はともかくとしてとにかく書き記して遺そう。そう思って1歩を踏み出したのが今年の5月の終わりのことだ。

それが今やどうだ。書きたいようにゲームの話を書き、書きたいように今もこうして【懲役太郎】の事を書きと続けてどうなったか。それはもう、1個人が好き勝手の限りを尽くしたにしては過分では?という程の実りをおかげさまで得られている。1年足らずで。

 手を伸ばして、あがいて、そうして自分の手で小さいながらも夢を叶えられたらこれほど「自己肯定感」を得られるものも無いだろう。なんだったら【懲役太郎】をダシに叶えられる夢があるのなら、是非とも踏み出してみてはいかがかと言いたいんである。自分と同じようにライターとか、動画切り抜きとかの職人だとか、ファンアートで絵師だとか、イベント等の宣伝広報員だとか、そういう立場はもうそう遠くない距離に在る分野の夢であるのだ。ことVtuberの界隈においては。

 

信じられている、だから信じられる

 ここまで一方的にファン側が汲み取って感じ取るものが効いている、そういう話になっていたが勿論そんな方向ばっかりではない。コンテンツとしてではなく1個人として懲役太郎という男が「自己肯定感」に効くような働きかけをしてるから効くんだよという証言もすべきだろう。

色々と一般的な尺度や枠に収まらないのが【懲役太郎】であるが、中でも「Vtuber見ててもそんなムーブしてる子他に見ないぞいいんかい」と草生やしたくなるような彼の言動として『丸投げ』というのがある。

特に元警察官Youtuber・やまよし氏(@umibopolice)に対してやるのが多い。犯罪者側の視点ならこうだけど警察官側の視点でこの話するとどうなるんだろう?という話になるとちょいちょい"後はお任せしますんで"などと言ってパスを投げる。あとあのおじさん自分のリアルイベントの宣伝、苦手だからっつってファンに"丸投げしようかな"とか言うたし。自分だけじゃなかったにせよ名指しされてんのは草。

当時は「ンモー宣伝苦手おじさんカワイイなあ」などと笑いごとにして宣伝ツイートをせっせとしていたが、実はこういう言動もまた人の「自己肯定感」に訴えかけて効いてくるんである。

 そも『丸投げ』とは何か。自分で抱える何がしかの案件・タスクをそのまま他者へ任せる事である。例えば社会人として仕事をするにあたり、自分がやっている作業を他の誰かに『丸投げ』できるだろうか?できると簡単に即答はできないはずだ。

何故できないのか。丸っと横に流して任せるというのは任せた相手を「任せれば後は上手くやってくれるでしょう」と信じられないと中々できるものではないからだ。そこから逆向きに考えていくと、何かしらのやる事を全面的に任せると任せられた者は任せた相手に【自分は信頼されている】という印象を抱いたり、あるいは【自分は任されたこの作業をきっとやれる】と、自身に対する信頼を抱くように思えるようになる、つまり「自己肯定感」を得られるような大きなきっかけとなり得るのだ。

 この旨を裏付けるものとして、ある書籍より文章を引用する。

 

 とうとう私は、教えたり問題を出したりするのを止め、文句を言っていた少年たちに「では替わりにやってくれ」と彼らを前に出させ、私は少年側の席に移りました。彼らに私の苦労を体験させようと思ったのです。

 ところが、そこで驚くことが起きました。私を無視していた少年たちが「ボクにやらせて下さい」「ボクが教えます」と先を争って前に出てきたのです。そして、とても楽しそうに皆に問題を出したり、得意そうに他の少年に答えを教えたりし始めたのです。

 

引用元:宮口 幸治(2019) 『ケーキの切れない非行少年たち』新潮社(155ページ)

 

ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)

ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)

 

 

今年ちょっと話題に上ったあの本である。丸投げするに至る経緯はこの著者の場合、

『認知機能向上トレーニングを少年たちに施そうとしたところ反抗し続ける少年の存在により効果が上がらず最終的に投げやりになって丸投げした(※要約)』

と全然違うが"他者に作業を丸投げした事で投げられた側はかえって喜んで任された作業をこなそうとする"という事象はこれこのように立派な教養書でも言われているのだ。そしてこんなご立派な本に書かれている事を懲役太郎という男はその人生の実際の経験でこの本が出るずっと前から既知の事としているのだ。

  【懲役太郎】が行っている電話相談の2回目の時にこれに関わる話をほんの少し聞かせてもらえたくだりがある。何の話から繋がってそうなったのか詳細は忘れたが。

 

youtu.be

 

生放送アーカイブで言うとこの回のエピソードがうっすら関連してくる話である。いわゆる『組』という所は2年くらい住み込みさせて面倒を見て使いものになるように仕込む。朝が起きられないような子でも車をとんでもないぶつけ方しようとも放り出さず見限らず腰を据えて相手をし、掃除やゴミ捨てといった日常生活のスキルという人としての土台から教育を施していくそうだ。

仕込みが済んだら課長だのなんだのと役職・肩書きを作って与えて仕事を与えて、とやっていく。"それは私たちの世界では当たり前にやってた事ですよ"と言っていたが、現代社会においてその"当たり前"はもう当たり前では無くなっているんだろうなとそれを聞いて思ったわけだ。

役職を与えられ仕事を任され、という部分が無いわけではなく、『あなたに任せれば上手くやってくれるでしょう』という信頼される経験が無くなっていないか?『最悪失敗しても構わないから』という面倒を見られて恩義を感じて、信頼に応えたくなるような人と関われる機会に恵まれている者がどれほどいるんだろうか?

そういうとこだぞ、という話である。彼にとってはずっと前からやっている何でもない事なのだろうけど、彼のような【行動を伴った信頼】はもはやこの世界に足りていない。足りていないから「自己肯定感」などという言葉が流行ったんである。誰かから信じられた実感が足りないから自分自身を信じられていない、というケースもあるのだろうと思う。

そんな人に【懲役太郎】は本当に心底から効くぞ、と喧伝して回りたいんである。

「それはあなたがこうして活動しているから得られているものでしょう?」と言われそうだがそんな事無い。コメントもファン活動も表立っては行わない視聴のみに留まるいわゆるROM層と呼ばれる人に対しても等しく同じように信用して活動してるんですよあの人はよ、という話を続けてさせていただきたい。

 

 【懲役太郎】の生放送はけして全てが楽しく笑えるような話ではない。

 

youtu.be

 

この回の『分類センター』の話のように、彼の過去の壮絶な部分を吐露するような回もある。こういう回は中々つらい。その過去に対してわかったような口なんてきけるもんじゃないし簡単に寄り添えるものじゃないからしっかり聴いて考えるくらいしかできる事がないな……己の無力さが憎いな……という意味でつらい。

「腹を割る」という慣用句があるが、本当に物理的に腹掻っ捌いて臓腑を並べて晒されているような、古傷を抉って抉って血を流されているのを見ているような、「そこまでやるのか」と胸が詰まって脳を揺さぶられながら聴く回、そういうのがある。

聴く方もつらいけど話す方はもっとつらいだろう事は想像に難くない。それでも太郎さんがこういう話を打ち明けるのは昔に確かにあった事実が時代の流れに埋もれて忘れ去られていかないようにするためで、【懲役太郎】が語り継ごうとしているものを足を止めて目を背けず耳を傾け記憶に刻みつける、そうしてくれる誰かの実在を信じているからだ。

いつもの楽しい話やためになるなぁ~!という話だって、それが"誰かの何かのためになれば"という想いからであり、"迷惑に思うかもしれないけど"、"余計なお世話かもしれないけど"と謙遜して不安に思いながらもそれでもVtuber活動を通して助けられる誰かの実在を信じているからだ。

これほど他者を、人間というものを信じているのが『前科三犯・称呼番号893番』という行きつく所まで行きついた1人の50代の男の人という事実がどれほど途方も無く重たく、尊いと思ったか知れない。これが10代20代の若い子が同じ事やってたら「そんなんじゃいつか悪い人に引っかかりそう」という心配が先に来ようというものだ。太郎さんは人と世のことをたくさん知った上でそうしている。その選択に辿り着いている。

だからどうか、チャンネル登録して動画や生放送を視聴し続けて、【懲役太郎】を観測し続けてくれないか。彼の信頼に応えて彼を信じる、相互の信頼を築くに至ってくれないか。それだけで充分、太郎さんから贈られている信頼を受け止められている立場であると言えるから。

そうして、たくさんの人が彼の選択を「間違っていない」と示していて欲しい。この尊い誇りある選択を、肯定できる自分を肯定するのは誰にも許されている「自己肯定感」の獲得の手法だから。どうか。

この辺りの事考える度に大体いつもちょっと泣く。ここ感情の重い面倒くさいオタクの悪い所だと思う。

 

 コアで熱心なファンとの間にはもうしっかりとこういう信頼が築き上げられているんだな、と感じたのは第1回目リアルイベントに関する所感をこぼす太郎さんを見ていた時だ。太郎さん本人が言っていたように太郎さん個人の過去・情報として結構クリティカルなところまで明かしていたが、そこを致命的に言いふらす者は居ない。

ありがたいですねえと言っていたけれど、その時から「そりゃそうだよ」と思っていた。だってあの時おじさんあの場に居た皆を信じてあそこまで言ったんじゃん。ああまでずっしりと重みを感じる信頼を預けられたら人間ってその信頼を裏切らないように信頼を返すもんなんだよ。他の人がどう思ってるかまでは知らないけど少なくとも私は太郎おじさんのそういう所信じてるし信じられてる自分を信じられるようになったし尊敬してます。

今月分の記事、2割くらいこれ書き残しておくためにやったとこがあります。成し遂げたぜ。

 

バーチャルさんはみている(ガチ)

 SNSが多くの人間の生活の一部に組み込まれるようになり、色々なものが視覚化された。良い事もあるが悪い事もある。SNSで目立つ人は何かと輝かしいし沢山の人に注目されている。その上澄みの眩しさにあてられた末に「あの人たちと違って、自分を見てくれている人なんてきっと誰も居ないんだ」と落ち込んだ経験がある人もいることだろう。

私が【懲役太郎】を誇張でもなんでもなく全人類推してくれとうるさく言ってるのはそういう想いで孤独感に苛まれてる人にだって、あの面白おしゃべりおじさんは効くとよくよく知っているからだ。

 動画の編集とか生放送のセッティングを俺太郎先生や「係の人」に任せている分、目に見えるVtuber活動においての太郎さんがやる作業は少ない。少ないっていうかほぼ喋ることひとつが太郎さんの領分である。

ただその分というか何と言うか、太郎さんはファンの事をよく見ている。表で大っぴらに言わないだけで。50代のおじさんで老眼だからリアルタイムで反応を中々返せないだけで、生放送の後には必ず放送を自分で見返してコメントだって投げられたスパチャだってしっかり見ている。ツイッターを自分の名前でエゴサーチかけてチェックしてるしファンアートだって誰がどんな自分を描いてるか彼は全く知らないという事はないはずだ。文章の形でだって個人にもメディアにも取り上げられ書かれているのも目を通していることだろう。某組長もファンを「いつも監視(み)てる」事に定評があるが、その舎弟である懲役太郎も組長に倣うかのように結構丁寧に模ファン囚を見ている。組長舎弟てぇてぇなぁ。

前回の悩みを軸に置いた話の時にも言ったが、想って声を上げればあなたの行いは報われる。きちんと彼の目に留まる。今は電話相談もやっているので、なんだったらサシで直接声援を送ることだって叶う。その時事前にコメントつけたりして丁寧にアピールしておけば「いつもありがとうございます」ってきっと言って貰えると思うのだ。

毎月1日に手癖でpixivFANBOXの宣伝ツイートなどして遊んでいるがそれは別に私がやらなきゃいけない事でもなければ私しかやってはいけないことでも何でもないので、他の人も宣伝プレゼンしてくれたらいい。某コラ職人の模ファン囚を最近あのおじさんはいたく気に入っている。そういう方向で【懲役太郎】でちょっと遊んだっていいんである。

 勇気を持って手を伸ばせば、あのおじさんはその手を取ってくれる。そうして「私を見てくれる人がここに居るんだ!」という「自己肯定感」を得る人が1人でも増えてくれればとても嬉しいなと考えている。

ただしできれば愛と誠意は前提として接して欲しい。遠慮はしなくてもいいです。ただ太郎さんが何度も言っているように"自分がされて嫌な事は人にしない"を心掛けて【懲役太郎】というコンテンツに触れてくれたらと願っている。バーチャルの電脳体と言えとその中身はみんな現実のヒトと変わらないという事は留意していただきたい。

前提がしっかりしていれば遠慮せず甘えても大丈夫だし許されてるっていうのは今これ現在進行形で自分が示しているのでご安心ください。ここまでの文章見ていかに遠慮をなげうっているかがよく解って貰えるかと思います。いつもありがとうなおじさん。今月も許されるかはまだわかんないけどとりあえず今までは許されてるからありがとうなおじさん。

 

かように圧縮した言語を開いて並べるのは大変である

  まして『人生に効く』などとデカい事を分解したものだから出てくる要素をまとめるの今回大変だなぁと思いました。でも本当にそれだけ心の色んな所に効くと実感しているからついつい人生単位で規模がデカくなってしまうというのが今回の記事で少しでも多く伝わっていれば何よりだ。

そして重ねて言うが、この『人生に効く』という実感は一部の人間だけが得られる特権などというものでは決してない。平等に手を伸ばして届く所に存在している。

結局ここに書いたもの以外でも何でもよくて、とにかく【懲役太郎】というコンテンツに触れた人がちょっとでも楽しい思いをして、日々が良くなって、誰かや自分の事を顧みたり好きになれたりすればそれが一番大事で喜ばしい事である。

だから私はこれからも折に触れ、こう言わずにはいられないのだ。

 

懲役太郎は、人生に効く。

お後がよろしいようで。

今月は以上となります、毎度長らくのお付き合いありがとうございました。

多分来月もよろしくお願いします。