手の平の中に、世界はあった。

ガラケーって言葉も無かった頃の携帯電話ゲームとか昔のゲームとか、他なんやかんやを書き残しておきたい、そんなブログです

概念としての≪銀の鍵≫と平沢進と懲役太郎

 優れたクリエイターはしばしば己の頭蓋の中に独自の世界を築いている。

その世界の一端を楽曲であるとか、書籍であるとか、漫画・ゲームといった作品として世に出し人々に見せて聴かせ、意識を現実世界から一時引き離し誘い、夢を見せる。

このような行為ができる人間を、自分は概念としての『《鍵》を持っている人』と捉えている。ひとりの、または複数の人間が構築した夢の世界へアクセスするためのマスターキーをクリエイターは各々持ち歩き、本などの創作されたコンテンツはその複製キーだ。

我々は創作物という複製キーを通してクリエイターが創造した世界に繋がるドアを開く。ドア越しに世界を覗き見たり、時には足を踏み入れてお邪魔させていただくという形だ。

 今回はまずこの概念を前提として抑えておいていただいた上で、タイトルにあるように平沢進と懲役太郎がメチャクチャ好きでファンなので皆推そう?な?と言いたいだけの話なのでついてこれる者だけついて来てくれ。個人のブログ、今日も好き放題。

 

現実問題、誰もがトクベツな力を持つ事は難しい

 《鍵》を持つ者やその創作物でちょいちょい見聞きする文言がある。

 

『あなたにも、わたしたちと同じように素敵な力があるはず』

 

これ、信じたいところではあるが実際のところは100%の万人が信じ切れるような簡単な話ではない、有体に言って「自分には何にも無い」と感じている人間はある程度いるだろう。

この文言を投げかける側の手の中には、キラキラ輝いている美しい《銀の鍵》が握られているのが見える。

けど自分はというと、銀どころかありふれた、毎日使ってる家の鍵や自転車の鍵がせいぜいである。鉄製の実体ある物質の鍵は綺麗っちゃ綺麗と言えなくもないけど恰好はつかない。持たざる者の手の中に在る物なんてこんなもんだと、対岸の遠くに見る《鍵》の輝きを「自分には関係ない物」としてただ消費し日々を過ごす。

そういう陰気なキャラ、略して陰キャの端くれとして抱えていた感情が自分にもあった。自分の人生という舞台でさえも自分が主役だとは思えないような、くたびれた大人の精神だけが適当に身体の中で打ち捨てられていたような頃だ。頃だって言っても本当に最近の話なのだが。

 

《鍵》を束で持ち歩く、次元の違いを感じるコンダクター・平沢進

 知る人ぞ知る(フォロワー15万人超)ステルスメジャー、平沢進にハマったのは今年に入ってからのことだ。

経緯は省くが少々持って回ったルートから『金星』という曲を知り、この静かに響くアコースティックギターとしっとりした男性ボーカルは実に精神に染み渡る曲で、他の曲も検索して聴いてみようと思ったらばこれがとんでもなかった。

平沢進という男は1ジャンルの型にはめこむにはあまりに特異すぎた。Wikipediaにおけるジャンルの項目の多さが何より雄弁に物語る。

ゴリッゴリの電子音が飛び交うテクノで近未来のビジョンを映し、戦争・マスメディアを痛烈にロックで皮肉り、通称「タイショック」以降多量に取り入れ混ざり出したアジアン民謡・仏教的メロディは瞼の裏に未体験の海外の地を描かせ、ミルフィーユが如く重厚に重ねられるコーラスがスピリチュアルな次元へのガイドを務める。

 これら全てが1人の人物を起点として生まれているのだから、人間が持つ想像力・創造力というものは想像を絶するエネルギーなのだなと納得するしかない。

彼をターミナル駅として数多の世界が見える、これは本当に稀有な事だ。多くの場合、例えばミステリー作家がファンタジー冒険譚を書く事はめったに無いだろうし、ヘビメタバンドが急に爽やかな青春を歌う事態は想像しにくい。そのレベルの幅広い音楽を作るこの平沢進というミュージシャンは、冒頭の概念の《鍵》を何本もじゃらじゃら提げているように自分からは見えているのだ。なんならその鍵同士がぶつかって発生する音までもを音楽に落とし込むまである。

その鍵束に魅せられて平沢を師匠と仰ぎ集まるのはファンこと馬の骨だが、これに対して平沢は彼なりの親しみを込めたコミュニケーションとしてええいうるさい、寄るんじゃないとしばしば辛辣に追い払う。その一方で彼は今日もつらつらと、そしてしれっと彼の観測する隣接次元や30世紀人やサイゼリヤつくば山頂店(※山頂に実在してない)の話をツイッターへと書き記す。

 

あれほどの異次元の発想、世界観をこのステルスメジャーはあたかも、

 

『こんなものは特別ではなく、あらゆる世界と次元は地続きであり、オマエタチの手の中に《鍵》が無いのはポケットに入れっぱなしで洗濯機に入れ、干し、取りこみ、畳んでしまい、また着ているからである。

次の洗濯前に確認しておくように。』(※実際にこのような事は言っていません。…言ってないよね?)

 

とでも言われているかのように思えてならない。此処ではない何処かの世界線は1枚のフィルター越し、薄布越しにあるぞとドアの向こうから間近に迫るまでに湧き出て侵食して来る。

その最たるものが平沢のライブ―――インタラクティブ・ライブなのだろうと見ていて思う。ライブに来ている観客、どころかインターネットから見ているオーディエンスまでもを巻き込んで、ライブ中に展開せしストーリーの分岐を選択させる。そんなライブ始めて聞いた。一方的に客が受け取るだけで終わらせないライブというまさに異次元レベルの発想は、"めくるめくヒラサワールド"を対岸の、他人事にさせないという強固な意志と矜持の表れだ。

それが平沢進の《鍵》の在り方なのだ、というのが自分なりの彼の世界の解釈である。

この心地良い価値観の揺らされる感覚は味わったら抜け出せない、私ももう数多の馬の骨のうちのひとつであるのだろう。後悔は無い。

 

《鍵》で開く先は『わたしたちの』現実と日常。懲役太郎というコンテンツは特異に満ちている

 【平沢進】という下地・前フリがあった上で、話は2019年5月へと時間が進む。

 再三言っているが【懲役太郎】というVtuberにドハマリしたんである。

かのゴルンノヴァ総統は【懲役太郎】というコンテンツを「濃厚な"しくじり先生"」と例えていた。正直その面もあるだろう。『バーチャル刑務所に収監されている囚人というロール』と『反社会的組織関連の何十年か分の生き証人』、この2本の《鍵》で開く対岸の世界はなるほど確かに、「こうならないようにしないとね」と反面教師として学び消費する"しくじり先生"と同じ見方ができるだろう。

 

 それだけで終わるコンテンツだったらここまでハマってないんだよなぁ。前述の《鍵》でアクセスできるのは知識・雑学系にある『現実ではあるが我々の知らない世界の話』のみではない。では他に何処のドアが開くのか?

【何ら変哲のない、我々一般ピープルの日常】、である。

実はこれ自体は既存のコンテンツでも無いことはない。「なんでもない毎日が大切で幸せなんだよね」などという主張を含む作品は枚挙に暇がない。しかし【懲役太郎】と既存コンテンツでは【日常】というものの見え方・扱い方が決定的に違う。

囚人である【懲役太郎】というコンテンツからしたら、平坦でともすれば退屈な【日常】は価値の在るひとつの夢である、ということだ。

この尋常でなさが文章ひとつで伝わるかどうかが甚だ不安でしかたない。普通であればコンテンツ【を】我々【が】見ているのだが、コンテンツ【が】我々【を】見ているというありえざる逆転現象が起きているのだ。

 今年はわりかしまっとうに来た梅雨時期のグズグズとした雨模様の中で、"刑務所の中では雨に濡れる自由が無い"の話を思い出し、自宅のドアの鍵を取り出す際には"懲役になると鍵というモノは持たないし開けることは無い"と言っていた回の放送になんとなく思いを馳せ、先日の選挙の折には"私のような立場の人間は投票する権利が無い"という言葉を今一度反芻して投票所へ赴いた。

どれも特別な事柄は何も無い、当たり前に通り過ぎている日常の1ページだ。そんなものも手の届かない立場から改めて【当たり前のことを当たり前に享受するという力】の存在に言葉で触れられるとどうだろう、ただの鉄の鍵が自分の手の中にあるのが、なんとなく誇らしくなるような心地がしないだろうか?

鉄の鍵でいい。特別な力でなくていい。自身というコンテンツを媒介にして『わたしたち』に繋がるドアを開けさせ、自己肯定感を促したところで、「わたしたち」へと送られる【懲役太郎】というコンテンツからのメッセージは突き詰めれば非常にシンプルだ。

 

『考え続け、向き合い続け、行動し続け、生き続けて下さい。

これらに手が届く所に居るあなたは、充分立派なんですよ』

(※実際にこのままの発言をした事はない。あくまで想像・解釈だからね!)

 

「こうはなるまい」とある種下を見て安心する、下卑た娯楽の面を含む"しくじり先生"に収まらないこの凄みが伝わるだろうか?自称・還暦に一番近いVtuberという立場で、何十年の人生の積み重ねの末に辿り着き説くのは【何物でもない者たちへの激励と賛歌】なのである。

自己啓発本とか買ってる場合じゃないぞ。一刻も早く全人類懲役太郎おじさんを推して。そしてこの感覚を共有できる同志増えて。

 

Join us!!!!!!!!!!!!!!!(突然の英語)

 

 

 

そしてこさえた自分のマスターキー→このブログ

 このような感情の動きを経て今に至る。結果陰気な人間である根っこのところにすぐ変化があったわけではないが、「自分にはどうせ何にもないしー」と他人事でいるのは止めにした。一寸先の異世界から流れ込んで来るエネルギーを取りこみ、特別でない積み重ねをコツコツ続けてみてさてどうだろう、此処というコンテンツの成果物は、それっぽいけどまだまだお安いぴかぴかの、真鍮製の《鍵》くらいにはなれているのだろうか。

 ありがたい事に、近頃は自分の行動に対してツイッターで繋がっている人・いない人からの反応をいただける機会も増えて来た。広いインターネットの大海で簡単に言葉をやり取りできる恩恵を噛みしめている。

この体験・実感を以って、当記事で言いたいことは結局ひとつだ。

 

平沢進と懲役太郎は人生に効く。ついでに平沢進は頭痛に効くとの話も出ている。

ものは試しよ摂取してみて。

 

もしも?万が一?ここの方向性の違うおじさんコンテンツ両名に触れても「ちょっと違うなあ」と思ったらまた別の色んな、自分に合う《鍵》を探すことをしてみて欲しい。

行く先のドアとそこに繋がる《鍵》は、多いに越した事は無い。貪欲に行ってみたまえ。

みたまえ、などとちょっと偉そうな〆になってしまった。こんな時もあるってことでご容赦願う。