手の平の中に、世界はあった。

ガラケーって言葉も無かった頃の携帯電話ゲームとか昔のゲームとか、他なんやかんやを書き残しておきたい、そんなブログです

死にゆく世界で、もがき、あがき、生きるふたつの命。「終わる世界とキミとぼく」プレイ感想

 

worldend.illucalab.com

(公式サイト)

 

 

 

 ゲームとは、娯楽のひとつである。プレイする最中、悲しくなったり憤りを感じる瞬間もあるだろう。それでも結局は様々な感情や体験を経て【楽しい】を得るのが娯楽であり、娯楽のひとつであるゲームを手に取る動機となるのだと思う。

……ならば、明るく優しい【楽しさ】をはなから与えるつもりの無いゲームはいけないのだろうか?【楽しさ】を得るまでの道のりが苦しみと悲しみにまみれているゲームを、全てのゲーマーは望んでいないと言えるだろうか?

「終わる世界とキミとぼく」、以下「セカボク」と略すこのゲームは、そんな『ゲームというもの』の根幹にまで考えを及ばせた末に「それでも、このゲームは良いゲームだよ」と言うより他に無い、そんな深く暗く冷たく長く苦しい―――そして、面白いゲームである。

 

舞台はヒトの文明が崩壊した世界

  その設定とストーリー背景はわかりやすく不穏である。

 

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タイトル通り『世界の終わり』からゲームは始まる

 

 

 

このように、安定?秩序?そんなものは核によって一切合切薙ぎ払われた、静かに死に満たされた世界。いわゆる【ポストアポカリプス】ものと呼ばれる世界観で主人公の「ぼく」とクラスメイトの「マチコ」を生き延びさせ、『生き抜く術』を見つけ出すことをクリア条件としサバイバル生活を過ごしていく。「セカボク」はそういうゲームである。

「ポストアポカリプスで豊かな暮らしを築くのはリアルじゃないでしょ」と常日頃思っているサバイバルゲー好きに告ぐ。今すぐストアへ行くとよい。

銃を集めてミュータントだゾンビだをハチの巣にしてやるぜ!!……なんて展開はない。武器の上限は猟銃・火炎瓶がせいぜいだ。畑を作って料理レシピをどうこうなんてグルメな食生活はない。条件が整えば野菜の栽培でなんとか飢えず食いつなぐことができる、その程度の文明的な生活はできるが食べ物は野菜だろうが肉だろうが缶詰だろうが一律で『食料』である。

少年少女の相応に収まった身の丈でからがら生きる、無味乾燥でさびしく、わびしいサバイバル。1周回って中々無いレベルの容赦の無さはまさに待望である、と喜ぶゲーマーも居ることだろう。

 そう、「セカボク」は全体的に『そういう層』向けのゲームである。その事を理解して手に取らないと相性の悪さで評価が割り引かれる、結構なトガった個性を持つ作品であるという点をよくよく理解していただきたい、と述べた上で次の話に移ろう。

 

とにかく「運ゲー」「理不尽ゲー」と言われた「セカボク」

 正式リリースされてから本当にこの2つの発言はTwitter上でよく見受けられた。

正直に言って、これらの発言自体は私は否定しないし一定の同意と共感を示すものである。その上できっぱり言おう。

 

この「セカボク」というゲームに限っては、「運ゲー」「理不尽ゲー」の味付けは【必要なものであった】と言わざるを得ないのだ。

 

 まず単純にゲームとして、「セカボク」は【ローグライト】と公式がジャンル定義をしている。【ローグライト】って【ローグライク】じゃないの?何が違うの?という話をしだすと長くなるので割愛するが、要は古のゲーム【ローグ】っぽいもの。

ローグライク】よりもさらにもう1段うっすらと「っぽい」もの、と考えて遊ぶゲームである。これはつまり、『ランダム性があるよ』を意味する言葉と捉えるとよい、という事だ。

ゆえにまず、「運ゲー」であることはジャンルで最初から言っているのでおかしい事ではないよ、ということだ。【ローグ】要素を含むゲームで運を天に祈る瞬間など無かったためしが無いだろう。

その道程がどうか幸運であるように願いながら歩を進めるつくりであるのは作者・EIKI`氏が元より狙ってやっているわけだし、【ローグライト】ジャンルである以上避けられないものなので受け入れて、と言うより他に無いのである。

 

 じゃあ「理不尽ゲー」の部分はどうなのか?という点については、先ほども述べた【世界観】がその理由の説明になる。

殆どの人類が核ミサイルによって死に絶え、建物だって人類と同じく殆ど壊されわずかに残るばかりで、ゲームを進めていくと身をもって知ることになるが、このわずかに生き延びた建物やら人間以外の動物やらも『終わる世界』の前には無力である、とてもとても濃い【死】がのしかかる世界で、幸運にも生き延びたのが主人公の「ぼく」とクラスメイトの「マチコ」である。

そう、【幸運】なのである。割とマジでよく生きてたなぁ、というところからスタートし、いや本当によくこんな結末にこぎつけたなぁ、というところまで持っていくのがこのゲームの構造だと解釈して差し支えない。

スタート地点に立てた【幸運】と同レベルか、あるいはそれ以上の【幸運】に恵まれでもしなければ、この2人の少年少女は本来この世界を生き延び続ける事はそもそもできないでしょうよ、というのがEIKI`氏の意図するところであるように自分は思えた。

難易度バランスを考えなかった結果の難しさ、ではないんである。「この世界観、この設定なのだからゲーム進行が簡単なわけがないよね」という、演出に凝った結果の大変さである事を加味した上での評価を自分としては強く望みたいところなのだ。

 

 また、実際のゲームデザインの面においても遊んでいくと実は案外「理不尽ゲー」ではない事がわかる人にはわかってくる。

例えば探索箇所の解放はきちんと『パラメータ:知識が一定以上に到達』が条件として設定されているし、最初の解放で【図書館】と【病院】へ行けるようになるわけだが、この【図書館】の初回探索時には確定でクーラーボックスを抱えた死体と遭遇するイベントが発生し、クーラーボックスを検める選択をすれば『食料』が4入手できる。この情報を知れれば以降のプレイで序盤の食料管理を、多少だがプレイヤーが能動的に調整できるようになるわけだ。

そういった情報の蓄積は【ローグ】系の醍醐味のひとつだ。【ゲーム内知識を得ることでプレイヤーのレベルが上がる】ことにより、「セカボク」は最も良いエンディング、トゥルーエンドへのロードマップはしっかりと描くことができる構造である事が浮かび上がってくるのだ。

【ローグ】系である以上、その道のりが解ったところで必ずクリアできる、とはいかないがこの『プレイヤーのレベルアップ』によりイベントの取捨選択やアイテムの重要度が解ってくると、案外、要所で食料の補給チャンスがあったり、知っていれば一方的にこちらがボーナスを得られるようなイベントがある事に気付いたりできる。

ゆえに私はこのゲームをこう評価したい。

 

「セカボク」は、容赦は無いが慈悲は結構あるゲームなんですよ、と。

解るまでは大変だが解ってくると生存日数も延びるようになって面白くなる。「とにかく挑み、知ることだ」とどっしり構える「セカボク」の骨太なゲームデザインは「ウィザードリィ」シリーズなどでせっせと方眼紙で手作りマップを書いていたようなゲーマーに非常にオススメできる1作だ。

 

「セカボク」が合わなかった人が出た一因:『マイナスのn択』の話

 ……といった感じで擁護したい所もいくつもある「セカボク」ではあるが、特に近年のスマホゲームを遊ぶゲーマー層からすると楽しくないのかもなぁ、と思ったポイントがある。それがこの『マイナスのn択』だ。

象徴的なのは「セカボク」のこのイベントだろうか。

 

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既プレイ者ならひと目で「あー……」となる画面

 

上を選ぶと2人の体力上限が10削られる。これを取り戻せる機会はない。

下を選ぶと「ぼく」の体力が非常に大きく(確か40=ハート4個分)減少する。

「セカボク」にはこういった『何もいいこと無い純粋なバッドイベント』が何個か存在する。

 その事自体が悪いわけではない。例えば【ローグライク】ゲームとして有名な「風来のシレン」シリーズでもひどい目に遭う罠はたくさんあるし、関わるだけ損なろくでもないモンスターだっているが、では「風来のシレン」シリーズの評判が悪いかというとそうではないだろう。

ただ今のスマホでゲームを遊ぶ若いゲーマーは『「風来のシレン」のような』といった昔のゲームの遊び心地が通用しない層ができてきているな、そういう気配を「セカボク」に対する評価を通して感じ取ったのだ。

 

 これはスマホの『カジュアルゲー』と呼ばれる類のゲームを見ていくとなんとなく感覚が掴める人がいるのではないだろうか?特にPCで爆発的な人気を博した「クッキークリッカー」の流れを汲んだクリッカー系や、例えばスマホゲー「レガシーコスト」のようなインフレ系と呼ばれるようなゲームは、ただひたすらにプラスを、プレイヤーに対する報酬を積み重ね膨大な桁の数を視覚的にババンと出してくる。これが実際体験してみるとまぁ気持ちが良い。数値を稼ぐために稼ぐ、その繰り返しで桁が上がる、稼ぎが速くなるのを眺めているだけで脳が気持ち良くなるのだからゲームが与える報酬の力ってすごいもんである。

こういったゲームに慣れているプレイヤーだと「どっちに転んでもマイナスになるしかない」損だけのイベントはかなり不快に感じ、「マイナスになるところをゼロ、損傷無しで食い止められた」というゲーム進行でさえも損をしていないのにひどく侘しい、得にもならない事に見舞われたのがストレスに感じるようだ、というのがレビューなどを見て回って自分が考えたひとつの推測だ。

 

 なので「セカボク」は個人的には好きだが、「楽しく遊べるよ!!」という触れ込みで万人に薦めるのは少々躊躇する尖ったゲームではある。イベントでちょくちょく『マイナスのn択』や『マイナスかゼロのn択』をよこされるからだ。

しかし、創作者、小説を書いていたり同じようにゲーム制作をしている人にとっては「セカボク」はプレイヤー心理とゲームの難易度デザイン、世界観や設定にゲームシステムをどこまですり合わせるか?を考え学ぶには非常に良い作品と言えるだろう。

 多くのソシャゲのデイリークエストのように、小まめに報酬がもらえるデザインはプレイヤーの喜びを刺激するのに効果的であり、逆に得たものを失わせるイベントはストレス負荷がかかるので負荷をかけてはいけないわけではないが、アフターケアなどでストレスがかかってもなおプレイを継続しようと思える何かを組み込んでいくのがクリアするまでゲームを遊び抜いてもらえるひとつのコツなのかもしれない。「セカボク」を遊んだ経験から、個人的にはそんなことを思ったのだった。

 

そしてクリア後に思い知る、「セカボク」のテーマ、その芯

 「セカボク」には実績システムが存在する。各種エンディングに到達や特定の条件を達成すると埋まるようになっている。

 

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やりました。

 

この実績を全て埋めると読むことのできるテキストがあるのだが……このテキストを読まずともゲームプレイを通してうっすらと察せ、そしてこの実績全達成のご褒美として読めるテキストではっきりと確信できた。

 

「終わる世界とキミとぼく」を端的に言い表すならば、これは【選別】の物語である。

 

核ミサイルが降り注いだ圧倒的な死の【選別】に振り落とされなかったところから始まり、ゲームの最中には「ぼく」と「マチコ」が知らないうちに存在していた【選別】があり、ルートによってはその【選別】は2人の知るところになる。

ゲームプレイも【選別】の連続だ。何を得るために動くか?何を犠牲に差し出すか?選び取り、切り捨てる。

 

 ここで、もう1度「セカボク」が運ゲー・理不尽ゲーであったことは【必要なこと】だった、という話に戻ってくるのだ。

「セカボク」が【ローグライト】なのは、それだけ2人がこの世界を『生き延びる』のが簡単な事ではないのを表している。その簡単ではない2人の道のりを、プレイヤーは繰り返し繰り返し遊び、挑むことで『生き延びる』ことを成功しトゥルーのエンディングに辿り着ける世界線を……別の言い方をすれば、そこへ至れる個体の「ぼく」と「マチコ」を【選別】するのが、この「セカボク」というゲームなのだ。

最初の頃は、このまま進めてもじわじわ死んでいくしかないだろう2人に心の中で謝りながら1回1回を最後までプレイしていた。だから辛くて少しずつしか進めていけなかった。それが慣れて上手いプレイをわかっていくうちに、「今回はダメだな」と見切りをつけて次の「ぼく」と「マチコ」のサバイバルを始めていく自分がいた。

2人の少年少女、その命をただのデータとして消費していく。

あるいは、あたかもカミサマのように、2人の世界線を剪定し選定していく。

 

この無機質な【いのちの選別】を経験してこそ、トゥルーのエンディングと実績埋めで解除されるテキストの、その味わいは引き立つ。ゆえに「セカボク」の難しさは必要であるわけなのだ。

 

この「プレイヤー側が【選別】に加担することを作者・EIKI`氏から望まれているのでは?」という考えに至った瞬間の背筋がゾクゾクきた感覚といったら実にたまらなかったことはしっかりとお伝えしたい。

これもひとつの、ゲームごしにプレイヤーへと干渉が為される、いわゆるメタ的アプローチというやつである。クリアしてこの感覚を味わったがために、私は冒頭のように、

 

「このゲームは難しいし合わない人もいるのはわかる。

それでも、このゲームは良いゲームだったよ」

 

……と言いたくてしょうがなくなったのだ。

この記事が少しでも「セカボク」が刺さりそうな人に見つけて貰える、その助けになるように、そして良い評価が増えるようになってくれればと思っている。「運ゲー」「理不尽ゲー」で忌避されるのはもったいないですって、本当に。

 

この記事を書いてる間にSteam版も出たんですのよ

 書き忘れていたが、「セカボク」は有料買い切り型のゲームである。スマホ版であれば250円程度、先日リリースされたSteam版だと600円ちょっとなので値段だけで言えばスマホ版の購入をオススメしたい。スマホだとタスクキルでリスタートも楽だと思うので。

広告に邪魔されず、どっぷりとあの灰色の世界のサバイバルに没頭できるため買い切り型にしたのは文句なしに正解と言えるだろう。雰囲気が壊れない。

最後に、作者も公に言っているように「セカボク」はトゥルーまでの道のりを、1人きりの力で解き明かすような挑み方を推奨していない。わからない事があったり詰まるような事があれば、どうかTwitterで広く人に訊ねたり、友人知人も巻き込んで攻略の作戦会議をしたりといった具合に楽しんで欲しい。

「セカボク」は、他者と手と手を取り合うことを賛美するゲームでもあったりする。そういうメッセージも込められたゲームであるからして、ぜひ「セカボク」を通したヒトとの交感もひとつ、楽しんでプレイしていただければ幸いである。

 

 

それでは、皆様。

どうか、よい終末を!

 

Vtuber【懲役太郎】から読み解くその活動の骨子、という話

 

(※過去記事あります。↑の「懲役太郎」のカテゴリリンクから見られます。ご活用ください)

 

www.youtube.com

 

 Vtuber活動歴も2周年を無事迎え、チャンネル登録者数は18万人を超え、「作家」として書籍を、「歌手」としてCDを出して文化人枠の名実もほしいままにしているVtuber界のアイドル、それが【懲役太郎】である。

そんな彼が『なんのためにVtuber活動を行っているのか?』という、根本的なところの話は後発のファンやライト層にはここまでくるとなかなか伝わり切ってないと考えた方がいいだろう、というのが最近の、いちガチ勢としての所感である。

そして当ブログを見返してみると、なんともお恥ずかしながらこの部分に対するしっかりとした掘り下げが抜けていて甘いな、という事実に気づいた。手抜かりである。

なのでここらでひとつ、知らない人に伝えるために、また自分のために書き記し、折に触れ立ち返るべく残しておこうと思う。今回はそういう話である。

ただ予め言っておくと、「こう言ってたよ」というソースは出せるところは出してはいくがあくまでこれは1人のファンが視聴してきた上での「こういう事だと思うんだよなあ」というひとつの考察であるので、ここに書かれている事が絶対に正しいわけでもない、というのはどうかご留意いただきたい。疑問や疑義・反論があるなら自分でスコップ持って掘るんだよ。ひとさまのアウトプットは常にお待ちしてます。

 

 

 

『前科のある人々』の存在と、更生・社会復帰とは?を考える

 

youtu.be

 

Q.あなたにとってVtuberとは?

A.社会復帰のための一環、と考えております。 

 

 人によっては、上記のアンケート企画コラボ動画におけるこの返答はウケ狙いのギャグに見えるかもしれない。

しかしところがどっこい、これは全くふざけてない大真面目な答えであり、「懲役太郎」の活動意図の核、そのひとつであると感じている。それを裏付けるものとして、あるNPO法人に言及した件がある。

 

youtu.be

 

motherhouse-jp.org

 

こちらのHPや、過去の生放送で太郎さんも何度か言っているのは【シャバに戻っても身の置き所が無いから、再犯して刑務所へ『戻る』選択肢を採る再犯者は実在する】という、いわゆる元受刑者・前科者をとりまくひとつの問題だ。再犯抑止に一意の、唯一の正解は無い。人に合わせた、ケースに合わせた対処が必要というのはどんな分野にも言えることであり、その「ケースに合わせた対処」のひとつとして、

 

『真剣に、犯した罪を反省し、受けた罰を経て更生せんとする人を社会側が迎え入れる』ことの重要性

youtu.be

 

……を、"前科三犯"という当事者として身体を張って、声を上げて啓蒙しなんでもない一般的な人々に意識させ、そうすることで巡り巡ってそういった前科者の更生・社会復帰を健全に促していくという、遠大なお考えがあるのがこの「懲役太郎」というおじさんなのである。

これに対して「前科者に甘い顔しろっていうのかよ!」と反射的に口走る人もいるがそんな事は言ってない。「『前科者』というラベリングを見て脊髄反射で排斥すべき存在だと糾弾する事は『必ず正しい事』ではない」という話であり、これは【懲役太郎】コンテンツ全てで共通してそれとなくこちらに伝えている"よくよく考えて下さいね"という話になる。

もし隣人がかつて罪を犯し塀の中に居た過去があったら。

もしそれが知人や友人であったら。

もしいつか家族や、果ては自分がそうなったとしたら。

そういう事を常にではなくとも、【懲役太郎】コンテンツに触れたときに少しだけでも、頭の片隅で考えてくれる人が増えれば太郎さんも活動の甲斐があるというものだろう。おそらく。

同時に世の中を生きる、かつて塀の中に居た人々の目にとまって『俺たち』に希望はあるぞ、というメッセージを伝えられるように日々活動とその実績を積み重ねる、先ほどの引用のように社会復帰するためのそのルート、その手札を晒して示しているのだ。

 

なのでそういう活動の一環としていつかCAPICさん(※刑務所作業製品を売ってるとこ。https://www.e-capic.jp/)からお声かけとか来たらいいのになあと日々思ってたんですけど太郎おじさんの方が「もういいわ」って言ったのでいいです。来年の全国矯正展はやるなら行きたいけども。

 

”誰かの何かのために”身体を張り、種を撒き、道を拓く人

 これはもう本当に、折に触れ幾度も、時に言い回しを微妙に変えながらも「懲役太郎」がお題目のようにして唱えているひとつの動機である。

 

youtu.be

 

この回の生放送の、特に7分43秒ごろからの話とか、

 

voicy.jp

 

あるいは、Voicyのこの回でこぼした"誰もがやってない分野を切り拓いてきてるつもり"という言葉にその想いは集約されている。

で、この集約を読み解くとこれがまた非常に中身が詰まりに詰まっていて語るに難儀するのだが……そこをなんとか、大きく3つに分けて話を運ぼう。

 

1.【懲役太郎】をつまびらかに語ることで→色んな事を踏みとどまらせる・未然に防ぐきっかけを植えていく

 Vtuberとしてのエンタメ的な演出・誇張・脚色をまぶしたコンテンツ、という形にして出してくる太郎さんの知識や経験は「赤裸々」などという単語で収まらないほどに明かしに明かしている。

 

youtu.be

刑務所に服役中の頃に、実際に性犯罪を犯した人から直接聞き出した話とか、

 

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「ナイジェリアの手紙」と呼ばれる手法の詐欺に遭遇した話とか、

 

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かつて確かに存在していた、この世の地獄の話とか、

 

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誰のことかはわかんないんですけど(すっとぼけ)ある懲役受刑者の恥ずかしいエピソードを挟みつつの刑務所のためになる話とか。

 

 こんなにも何から何まで隠さず誤魔化さず惜しまず、「懲役太郎」というひとりの人間のことを表に出しているのはそうすることで、『知ること』で防げる事態は数多くあるからだ。

かのVtuber・ゴルンノヴァ総統が残されたお言葉で言うところの"濃厚な『しくじり先生』"である、刑務所で経験した数々の話と『前科3犯』という「懲役太郎」の存在タグは人々に「こうはなるまい」と思わせて、衝動的に罪を犯さないように、犯したら「こう」なるぞ、という抑止を刷りこませる意図も含んでのことであるし、犯罪にまつわるあらゆる話は頭の片隅にでも残れば「あっ、このままだとこういう犯罪に遭うのでは?」という、被害者を生まない予防のみならず「あっ、このままだとこういう犯罪の片棒を担がされるのでは??」という、加害者を生まない予防にもなりうる、そういう所にまで至る話をしているのだ。

拘置所、刑務所で世間から隔絶され、その間に法律知識や文学といった知識・情報に触れ続けた結果その事を痛感した彼だからこそ、『知ること』の大切さ、その価値を語る言葉には実感がこもり、重みが出てくる。

その重みが、一時の感情に浮かされて今にも踏み外そうとする足を引き止める重石になれば【ひとりの人間をコンテンツに仕上げる】という、ひとつの身を切る行為もやってみた意義があるというものだろう。

 

2.色んな事にチャレンジしていけば→○○をやりたい!という人が効率的に夢へのルートを進む一助になる

 冒頭で述べたように、【懲役太郎】名義の書籍が出たしCDも出たんである。これまでにも「JODY BOY」(https://www.jodyboy.shop/)というアパレルブランドの監修の案件をいただいたりと、活動の分野を広げ多岐にわたって活動し、既存のVtuberではあまり前例の無い事へ意識的に手を伸ばしていこうとしているのが「懲役太郎」という50代のチャレンジングでハイカラなおじさんである。誇らしくないの?もっと褒め称えてフロア沸かせてこ、世間。

とはいえこれも―――やりたくない事はきっぱりとやらないおじさんなので『自分がやりたいと思ったから』という動機も含まれはするが―――色んな事に挑むようにして活動するのは後に続こうとする誰かのために道の無いところから草の根を分け、試行錯誤しながら切り拓いて、結果を出して轍(わだち)とし、成功すればそれをなぞれるように、失敗すればそれを繰り返さないようにという、年長者として若い者に背中で語るというおじさんのカッコイイ所、だったりしている。

 ここのところを是非他のVtuberの目に留まってバンバンリスペクトされて欲しいのがファン心理というものなのだが、どうも捗々しくないように思えるのがもどかしいところである。

だって、例えば歌手になりたい!アイドルになりたい!大きな夢を叶えたい!といった大志を口にするVtuberは沢山居るのにな?と、下々の一般人としては首をかしげてしまうわけだ。

本当に心から「歌手」というものになりたいという渇望があるのなら、古くは「イカすバンド天国」の時代からあるように、CDを出すレーベルへ片っ端から自分の歌のデモ音源を送りつけるようなパンク根性で動く歌い手の一人や二人いておかしくないのではないか?あらゆるコネを繋いで繋いで音楽関係の人脈に潜り込む貪欲な奴の存在がどこかで確認されてもおかしくないのではないか?……そう思うも、そんな話はとんと聞こえてこない。

みんな事務所やレーベルに『拾われて』お膳立てをされて夢が叶う日をお行儀よく待っている。そんな風に思えてならないのだ。まぁだからといって令和にもなってそんな昭和的な行儀で夢に手を伸ばすのもどうなんだ、という意見はともかくとして。

 『Vtuberとは商品である』、だからVtuberは演者として運営に紐づけられて思ったより自由ではなく、夢を叶えていただくために誠心誠意演者として働いていく……という流れに対して「手ずから夢をもぎ取る手段は在るぞ」と自分の活動、その結果でもって示す。

だから私は、一般のファンのみならず同業のVtuberにも【懲役太郎】を好きになってくれる人がたくさん居て欲しい。好きになってくれたその人たちの夢や願いのためにも、だ。"これからは個人の時代"とは「懲役太郎」おじさん本人の言だが、私個人としてもその言は支持したい。今は、ひとつの魂の煌めき、その軌跡が尊ばれる時代であるような気はしているからだ。

 

3.誰かの力になってあげたら→その人が次の『誰か』の力になってあげられる、【助けのバトン】を繋いで欲しい

 これはもう、最近伸び盛りのVtuber金美館通りの藤村さん】(@ofuronohujimura)との話を語った時にはっきりと言っている。

 

youtu.be

 

藤村さんは言いました。「何故ここまでしてくれるんですか?」、って言ったら「いや違います。私が次に、次にね、この子に応援してあげて下さい」って「私がした事と同じようにしてあげてください」っていう風な約束をしました。

私がした事、私が教えた事を貴女が次に「私がこの子に!」っていうことを教えてあげてください。

要するに、技術や伝承のバトンタッチをしてって下さいていうことなんですよ。

(アーカイブ内、15:30ごろ~15:56ごろ)

 

つまりはそういう事である。いかに「懲役太郎」が【誰かの何かのために】と思って1人で頑張っても、彼はヒトであるからして手を貸そうと伸ばせる手は2本しかない。どうあっても限界というものが存在するわけだ。

その限界を超えて助けが必要な誰かに手を届かせるには、他者の手を借りるより他に無い。1人の2本で足りなければ2人の4本、それでももうちょっと足りなければ3人で6本、4人で8本、n人でn×2本……そうして人が増え手が増えていくことで届くもの・繋がるもの・広がるものがある。

この人はそれを信じているし、たぶんどこかで実感としてそれを知っているのだろうと思う。

「懲役太郎」はそれを証明しようとしている。だから私は、僭越ながら、本当にものすごく身の程知らずにもおこがましく僭越ながらであるのを自覚した上で、その証明を証明したくてやっている部分がある、ということだ。

『自分が手を貸して立ち直った人・身を立てた人がまた別の誰かの力になる』ところを観測する事ができたら、「懲役太郎」というおじさんが世代のギャップやらなにやら色々全てに挑みながら続けた活動を「やってみて良かったな」ときっと喜んでくれると思うのだ。だから、例えば『懲役太郎電話相談』を遠慮したり躊躇してる人に「いいぞ。」と言ってまわったりしていたわけだ。

まず、「懲役太郎」が伸ばした手を取ってくれる人からそのバトンは始まるからだ。

多くのVtuberとファンとの距離感の尺度で測れば尋常ではない話で及び腰になる気持ち自体はよくわかる。わかるけど、そういう事なので遠慮はしなくていい。その事を今後も伝えていこうと思う所存だ。

 

悪事が千里を走るならば、善事に千里を走らせる事もまた、等しく可能ではないのだろうか?

 「懲役太郎」というおじさんは自分に振りかかってくるアンチコメントに割と都度相手をして「そういうの許さんぞ」という態度を示している。

これは「俺に言われている事なんだから俺が直接相手する」と態度で示すものであり、簡単に言ったら『ファンでもなんでも誰でも、言われた本人以外が代理戦争おっぱじめたらいかんよ』という抑止の意図も含まれていて、そこの部分をさっと汲み取るだけでもためになるものであるが、アンチを許さない事はもっともっと根本的なことの理由で諫めている。

 どこの回の生放送だったか、"そんな事をして何になる?"と問うた、その一言に全てが在る。程度の低い誹謗中傷はもちろんだが、相手を心配するための反対や制止とか、自分が被害を受けた事に対する文句だとかそういう所にまで及ばせて出て来た一言だ。

 

Q.そんな事をして何になる?

 

これを幾度か、『何になるか』を先を読んで読んで考えて、じっくりシミュレートして向き合った人が果たしてどれほど居るのだろうかはわからないが、少なくとも私はこの問いの答えはすごくシビアで残酷であり、でも残酷であることをよく自覚しなければいけない事なのか、という納得に至った。

 

A.本当に、本当に何にもならない。

 

ならないのである。マジにリアルにガチに誇張無しに、ネガティブな言葉には生産性が無い。

今挙げた中に『相手を心配するための反対や制止』をも含んだが、これを除くべきだとは思っていない。「止めておきなよ」と言われて「うん、わかった」となればとにかくその事象はそこで止まるからだ。

そこから「じゃあ別のことをしてみるよ」となるかどうかは状況だとかその人の思考であるとかによって左右されるものであり、必ず止めたところから別の方向へ向かうなどという保証は無いのである。

そしてその止める側だとかネガティブな言動で攻撃する側の人間そのものも、それをやってじゃあ何か知識の蓄積だとか経験だとか、少しでも何かしらを生むのかといったら見ていればわかるだろう。そんな事はしない。ネガティブなこと、他害的なこと、差別的なこと、それらの言葉を文面にして撒き散らすのがアイデンティティになってしまった人間は次の攻撃対象へと河岸を変えてひたすら続けるばかりだ。踏み荒らして回り、焼き払って回り、ただただ何も残らない・残させないとうごめき続ける、攻撃する者らのなんと多いことか。

 なのであのおじさんはひとの足を止めさせるアンチはのさばらせないという毅然とした態度を取るし、自分の口で、自分の感情のままに表立って愚痴や文句はあまり言わないようにしている。それをしている間自分の足が止まってしまうからだ。

代わりに、という言い方をするとなんだかしっくりこない部分はあるが、「懲役太郎」というおじさんは「そんな何にもならない事言う口があるなら俺の事褒めるのに使ってよ」などと冗談めかして言うのだ。

そういうとこだぞ。そういうとこ。

そうやって核心を照れくさいからって逸らすけど逸らした先が「俺を褒めてくれ」ってやってる事が完全にアイドルのそれだよそういうカワイイおじさんに射貫かれるガチ恋勢がどんだけ居ると思ってるんだ少なくともここに1人おるわ!おったわ!ありがとうございます今日も俺の推しがこんなにもカワイイ!!!!!!!

―――違う。落ち着け。今そっちの話じゃない。

いやとにかく、そういうとこなのである。これはつまり【人を悪く言うのに割く時間や思考を、逆のベクトルに向けた方がいくらも生産的である】という結論にあの「懲役太郎」というおじさんは至っているからそういう事を言うのだ。そしてこの結論を「できるよね?」と、こちらへ投げかけている。

こんな自分の善性の信じられ方あるかよ、と屈するしかないんであるこんなもの。

 何度でも言いたいいわゆるサビのところというやつなんですけど、"前科三犯、893番"の半生を生きたおじさんが人間の性善説を信じるという着地点に至るのはあまりにもこの世の希望を信じさせるのに充分が過ぎる。否定ができない。

 そんなんだから【懲役太郎】にハマった1年で随分を何かに対してわざわざ労力をかけて悪く言う行為はめっきり減った。よっぽどによっぽどだなと思って我慢がきかない時はあるので、完璧な善き人間にはなれていないけどなったらなったらそこまでいくのは不健全な気がするからまぁいいかなと思うんですけども。

この「懲役太郎」という男の姿勢と、それを倣うことによるメリットは広く理解され浸透して然るべきであると、私は理解して倣い、本当に望外の収穫を得たと実感している立場としてこうして記し、表明するものである。

善を唱え築き広げ、悪がこびりつけるようなスペースが無いように埋めていく。今の世界を生きやすくする術は、多分ここに在る気がするのだ。

 

これで大体網羅はできましたかね?いやあ満足満足

 ということで、今回はこれくらいにしておくとす。

最後にこの記事で語った【懲役太郎】の活動が内包するものを読んでいただき理解して欲しい事として、『こういう事なのでまたぞろなーんかやりだしたなって時に「迷走してる」とか言う人が減ったらいいなぁ』というのを表に出しておきたい。

だいたい何をやろうと、その意図を辿って行けばこれらの動機のどれかしらへ繋がるのでその芯はVtuberを始めてから今に至るまでブレてなどいないんである。だから色々やってるんだよあのおじさんは。

そういう所も含めて、【懲役太郎】が理解できれば視聴はもっと面白く、楽しくなる。その一助になりたいこの、一人の様子がおかしいオタクの想いを受け止めていただければ幸いである。

時代が「カイロソフト」に追いついた日、来たる。

 

kairosoft.net

(公式サイト)

 

 2019年のゲーム業界も賑やかに色々なニュースや話題が飛び交っていたが、その中で個人的にたまげた事象のひとつが、この「カイロソフト」のゲームがゲーム実況の題材として使われたことだった。

 

www.youtube.com

 

例としてはこんな感じで。

ゲーム実況者に取り上げてもらえるという事は、何がしかの魅力を感じて貰えているという証拠なわけで……いや勿論、カイロソフトのゲームに対してその魅力を疑っているわけではない。

驚いたのは、よくよくここのゲーム群を考えてみるとそのゲーム性とグラフィックははるか昔、ガラケー時代の頃からほぼブレずに変わっていない。にも関わらず世の中の方から、この変わらぬ面白さのゲームを提供し続けるカイロソフトを評価する風向きが表面化してきた点にある。

ひょっとすればひょっとすると、これはマリオもポケモンドラクエもFFも、全てを凌駕せしスゴさなのでは?などと思い至ったのである。

1996年創業ともはやすっかり老舗となったゲーム制作会社・カイロソフト。ここのゲームにお世話になった1人のユーザーの視点からその魅力をじっくりと紐解いていこう。

 

○○づくりシミュレーションの金字塔

 カイロソフトの源流は、公式サイトで代表取締役として名前が記載されている臼井和之氏、その人である。

有名なwebメディアである「電ファミニコゲーマー」にて、この貴重な臼井氏のインタビューが2018年に掲載されており、その軌跡と当時の臼井氏の心境などが拝見できる。

 

news.denfaminicogamer.jp

 

文中で「100万の賞金をもらった」とあるが1996年前後の個人ゲーム制作というのはマジで、珠玉の1本を作れたら当時天下のゲーム屋だったアスキーがそれくらいの賞金をくれた、会社側がコンテストを開き受賞者に景気よく現金をくれた、そういう時代であった。この当時からゲームを審査する会社側・実際にプレイするユーザー側両方から高い評価を得ていた臼井氏はつまり、いにしえに名を残せし勇者のひとりであるわけだ。

 臼井氏が個人でゲーム制作をしていた頃から現在に至るまで、カイロソフトのメインジャンルはシミュレーションゲームである。それも一般的なお店屋さん経営ゲームに留まらないユニークなモノを色々と運営できるゲームがズラリと並んでいる。

例えば前述の100万円の賞金を獲得したゲームである「ゲーム発展途上国」はその名の通り、ゲーム制作会社の経営シミュレーションゲームである。たまにやる「このハードでこんなジャンルでこういうタイトルのゲームあったらよかったのにな~!」の空想をこのゲームで実際に形にできちゃうんである。この1タイトルとってもカイロソフトは鬼才のゲーム会社、独特のセンスの持ち主だと言えるだろう。

他にもお寿司屋さん、ラーメン屋、お菓子屋さんといったオーソドックスな店舗経営はもちろんのこと、温泉旅館、プール、ゲームセンター、総合デパート、鉄道、ピラミッドと一風変わった業種も運営できて飽きがこない。

都市系シミュレーションも普通の街・お江戸の町・ニンジャ村・ファンタジーなお城と村と多岐に渡り、街が変われば行き交う住人の内容やサブシステムも変わるので単純な作品数の水増しになっていないのがカイロソフトの丁寧な所であり、どれもとりあえず1度は手に取りたい魅力がこもっている。

 

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ガランとした空き地を賑やかな街へ育てるのだ(画像:「箱庭タウンズ」)

 

 この一風変わった業種の数々で遊べるシミュレーションゲーム、というカイロソフトのウリがゲーム実況界にどうやらウケたようなんである。自分がはじめに目に留まったのはカイロソフト公式さんのツイッター(@kairokun2010)のRTでまわってきた「ゆけむり温泉郷」の実況動画だった。

 

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タイトル通り温泉旅館を運営するゲーム

 

冒頭でも述べたが正直たまげたんである。だって、「今更このタイトルを目にするとは思わなかったから」だ。Switchに移植される前、携帯端末でこの「ゆけむり温泉郷」が提供開始となった初出の年が2009年である。なんなら冒頭の動画リンクで紹介されている「ゲーム発展国++」はこれよりさらに1年前、2008年が初出である。

 約10年前、まだガラケースマートフォンに駆逐される前の時代に生まれたアプリゲームが今をときめく任天堂の最新機種に住処を移し、その先で諸手を挙げてプレイヤーに歓迎されるなどとどうして予見できようか。

そう思って衝撃のまま手癖で考察を深めるうちにふと、気づいた。よくよく考えてみると『カイロソフトっぽいゲーム』という上位互換・下位互換・類似品と呼べるようなゲーム、実は携帯ゲーム界にも据え置きコンシューマゲーム界にもこれぞ!と言えるまでに似通ったゲームは無いと言って差し支えないのだ。

 

『土地』『モノ』『ヒト』の3本柱が魅力を作る

 強いて挙げるならば、「ザ・コンビニ」シリーズや知る人ぞ知る怪作「新テーマパーク」辺りはカイロソフトに似ていると言えなくもない。共通点は店舗内部なり施設の敷地なりの『土地』があり、その中に『モノ』を置き、『ヒト』も配置し『ヒト』が出入りする。

この基本骨子に対して、作品によって『土地』『モノ』『ヒト』のどの要素に厚みを持たせるかでバリエーションを豊かにしているのがカイロソフトの独自の工夫、ユニークな魅力である。

 

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『モノ』に厚みを置いたゲームの1例「創作パティシエ部」

カイロソフトの作品はこの『土地』『モノ』『ヒト』をプレイヤーが能動的に育てられる育成シミュレーションの要素が存在する。ここが他のシミュレーションゲームでは中々同じレベルの面白さを得られない要素だ。

具体的に述べると例えば「ゆけむり温泉郷」は宿泊部屋や施設へ、ゲーム中で手に入れた飲食物やグッズを使用することでその施設のステータスが上がる。パネル上の見た目が同じ部屋であってもステータスの差により「この部屋は豪勢な特別スイートルームなんだぜ」と、自分の中で自分が作った箱庭のイメージを深めて遊んでいけるわけだ。これは『土地』を育てる部類に入る。

『モノ』を育てるゲームとして特に評価されているのは「海鮮!!すし街道」だ。回転寿司屋を運営し寿司を流すレーンの設置や店内レイアウトに苦心する傍ら、提供する寿司ネタにアイテムを使うことで自分が好きなネタを最も美味しい高みまで押し上げる、そんな野望も可能にしたこのタイトルはカイロソフトを知らない者に対してまず勧めたいゲームのひとつとして挙げられる。

「大海賊クエスト島」は結構長く遊び続けた1作だ。海賊船の内部に船員の部屋や敵の海賊団を捕獲しておく牢屋、お宝を保管しておく倉庫といった各種施設をイイ感じに並べていきつつ、海賊としてクエストに挑みモンスターと戦う船員を食べ物アイテムで経験値を与えレベルを上げ、施設利用でジョブ経験値を貯め色んなジョブを経験させていく『ヒト』を育てる要素には随分楽しませてもらった。

 

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いっぱいお食べ

 これらの育成要素が何を生むのか?【狭い愛着】を許容し応えてくれるゲームシステムである。自分の好きなモノにじゃんじゃんアイテムをつぎ込み活躍させることで"自分だけの○○"というお宝を自分の手で育む遊び心地はどのようなゲームであってもプレイヤーの心を掴むのに重要な要素だ。この要素が特に優れているがゆえにファンが飽きず、忘れず、語りたくなる。

こういった経営・運営シミュレーションゲームはいくつものグラフだチャートだを忙しなく見て回るとか、経営が軌道に乗って確実に増えていく売り上げなどの数値を静かに眺めているとか、どうにもマップ全体の流れを気に掛けて見ていくべき構造であったため、作品へ注がれる感情というのは比較的無機質な傾向にあった。これを暖かく血の通ったキャッチーなデコレーションで手に取りやすく、でも中身はシミュレーションらしくほどよい遊び応えのイイとこ取りなゲームに磨き上げた。それがカイロソフトのゲーム達なのだ。

……個人的にその極致にあるのが「こだわりラーメン館~全国編~」ではないかと思って居る。あえて画像は貼るまい。麺からスープから具から自分の理想を追求し倒したラーメンを作れるというこのゲームは単純に『ラーメン屋を経営するシミュレーションゲーム』を考えていては出せない、カイロソフト「らしさ」がよく出たタイトルではないだろうか。

 『土地』×『モノ』×『ヒト』がバリエーション豊かな箱庭の完成形を生む。これがガラケー時代を乗り越えてなお生き残るどころか躍進したとさえ言えるカイロソフトのゲームに潜むパワーなのだ。

 

アイコン、建物、ぴょこぴょこ動くキャラクター……見てて飽きないドット絵

 カイロソフトを語るのであればやはり、ゲームの外見について言及せずにはいられないだろう。先ほどから貼りつけた画像からわかるように2頭身のキャラクターから背景から全てが昔ながらのドット絵で表現されており、これがまた和むカワイさなのだ。

公式サイトの製品一覧から歴史を探るに、このカワイイグラフィックが生まれたのはPC時代、「まんが奥の細道」からのようである。

 

kairosoft.net

 

その初出は1998年。

1998年である。もう20年を超えた過去にルーツがあるなんて時の流れが積もり積もってしまったな……と改めて思い知らされる。

そして、ええと……公式見て……ツイッター遡って……多分、多分間違いなく最新作と思われるタイトルがこちら、「バスケクラブ物語」だ。

 

kairosoft.net

 

はい。

おわかりいただけただろうか。2019年に至るまでこの2頭身を、このドットをカイロソフトはほぼ貫き通したのだ。

ほぼ、とつけたのは唯一この路線から外れようとした意欲作がカイロソフトにはあるからだ。「ともだち芸能舎」というタイトルだったのだが……

 

kairosoft.net

 

当時非常に、それはもう非常にファンから阿鼻叫喚の批判が雪崩を打ってストアページに寄せられていった様をよく覚えている。2015年の時点でもうカイロソフトといえばこういう見た目のゲーム!というブランドイメージがガッチガチに確立していたという証左でもある……のでどうか気を落とさないでいただきたいところである。全く色のついていない新しいゲームディベロッパーのデビュー作品として出ていたらあるいは、この顔グラフィックに抵抗の無いユーザー層が居着くゲームになったかもしれないがいかんせんカイロソフトのキュートな子たちを見慣れてからのこれはギャップが激しすぎたのだ。

 そう、とかくカイロといえばドット、ドットといえばカイロという程にひたむきにカイロソフトのグラフィッカーさん達はカワイイグラフィックを作り続けた。そうしたらば世の中のゲームは技術が進歩し、それに合わせて携帯電話端末ゲームの業界でまでも美麗グラフィックが持てはやされる潮流が発生していった。……が、その流れは同時に、

「映画みたいにキレイなグラフィックは疲れる……スーパーファミコン時代くらいの温かみのあるレトロ感あるドット絵のゲームが欲しいなあ」

という……いや、もっと歯に衣着せぬ言い方をすると、

「ムービーを見たくてやってるんじゃない。グラフィックどうこう言うよりまず【ゲーム】をさせろ!……おっ、このゲーム面白そう。昔ながらのドット絵で硬派なやりこみゲー?イイネ!!」

……といった感じのゲーマー層の需要を生んだのである。実際、ドットゲーは「カジュアルすぎてゲームになってない」はあるが、「ムービーとストーリーが長々続いてゲームをさせてもらえない」はまず起こらない。ドットか否かはディープなゲーマーの試金石として測られる基準という風潮は完全に否定できるものではないだろう。

単純な見た目という点においても、ガラケースーファミ時代よりもずっと細かいドットで滑らかに動くドット絵は近年では『ピクセルアート』と呼び名を変えて評価されている。海外でもドットやピクセルアートで描かれたグラフィックのゲームで人気を得ているタイトルはいくつもある。

ドットは取り残されゆくレガシーなどではない。むしろ時が経とうとも普遍的に愛され、人々の魂に刺さるカワイさを作り出せる伝統技法なのだ。

 ゆえに今回のタイトルはああなったし、冒頭に挙げたビッグタイトルの数々にもこの【変わらなさ】という点は優越していると個人的には思えてならない。

マリオだって初代のあの横にしか向かないドットから3Dへと移行したのだ。他の超大作、超人気シリーズだって精巧なグラフィック、3Dモデルを用いその見た目を進化させた。変わらずにはいられなかった。

カイロソフトは、結果として、事実としてユーザーにお届けするその表の顔、提供されるゲームは変わらず在り続けたのだ。

裏では製作のためのゲームエンジンが移り変わりつつも、20年を超える長きに渡り作品の方向性を保つ老舗の安定感。これがファンを離さず繋ぎ止めながら新しい若いファンを獲得した大きな要因に違いないのである。

 

トボけたテキスト回しとネーミングセンスも触れておきたい

 脱力系の面白さ、とでも形容すればいいだろうか。とにかくゲーム内で喋るキャラの台詞や、そもそものキャラクターにランダムにつけられていく名前もグラフィックに合わせたかのようになんだかおかしくてカワイイのが、カイロソフトのユニークな魅力、そのもうひとつの車輪となっている。

 

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見てくださいよこのネーミングセンス

 

2ちゃんねる(今で言う5ちゃんねる)にはカイロソフトのゲーム全般の話をするスレッドも存在しており、スレタイトルにはこの個性的なキャラクターの名前が盛り込まれるのがお約束となっていた時期もあったほどだ。どれくらい個性的かというと、

・犬塚ポニー

・鎧塚パティ彦

・秘書ひしょ子

……などなど、絶妙に力が抜ける味わい・微妙に時事ネタ人名を触ったり触らなかったりする・ド直球に安直な時もある・なんかひっかかりを覚えるようで、でも脳みそに記憶され切らないようなギリギリのインパクト、というちょっと他に類を見ない方向性なばっかりになんだかクセになってしまうファンが後を絶たない。

 そして、このゆる~い楽しさのテキストや世界観は徹底して作られ保たれているのが大切なポイントだ。冒頭に貼ったカイロソフト公式サイトはご覧になっていただけただろうか?普通の企業なら良く言えば真面目、悪く言えば無味乾燥な見た目が一般的だろう会社情報のページでさえも、丁寧にカイロソフト節が唸る文章が書き連ねられている。

『真面目に不真面目』という言葉がある。ルーツまでは知らないので今調べたところ有名児童書シリーズ「かいけつゾロリ」からきているらしい。つまりはこういうことだわな、と膝を打った。子供から大人にまで愛されるもの、広く長く愛されるものは『真面目に不真面目』ができているから面白いと評価されるということだ。

ゲーム中のイベントでキャラたちが喋る台詞の数々もキリがないほどユーモアたっぷりで面白いのがカイロソフトのいい所。できれば実際にお手に取ってその目で確かめていただきたい。

 

価値あるディベロッパーに【なった】ということ

 かつて、カイロソフトのゲームは月額300円で複数タイトル、遊び放題で遊べていた。時が経ってゲームそのものの価値、開発費、物価と様々なものが変化していった結果、今やこの価格はSwitchだと単一タイトル1本売り切りで1500円というお値段になっている。

あの頃を覚えていると、正直高くなったなぁと思ってしまう。が、あの頃を知らない若いゲーマーからしたらこの価格は高くもなんともないのだろうし、昨今のゲームの価格事情をちゃんと考えていくと、特にスマホのソシャゲで10連ガチャの価格があれくらいだから……なんて考えていったらこの価格はまったく妥当、寧ろ1度買えばプレイ時間がどれほどになるかを考慮するとお得と言ってもいいくらいだろう。そう思えるようないっぱいの面白さを詰め込んだゲームを作り続けたカイロソフトの、地道で誠実な積み重ねがこれからの時代でもっともっと評価されて誰もが知るようなゲームメーカーにぜひとも登りつめて欲しいものである。

 

 まさに当ブログタイトルのような、手の平の中にあったいくつもの箱庭世界が今あのTVの液晶モニターで広々と伸び伸びと造られている様は、良くないニュースも色々聞こえてくる日本ゲーム業界の中に差し込む一筋の希望と幸福の光であるように思えてならないのだ。

今も昔も、面白いゲームは面白い。カイロくんのフォルムみたいに、簡単なお話だ。