「moon」に刻まれたドビュッシー作「月の光」の傷跡と、おばあちゃんのこと色々
※「moon」のネタバレを含むお話です。今からSwitchで購入しプレイする予定がある人はご注意下さい。
22年という実に長い時を経て、『扉』へと至る物語が再び人々の手に届くようになった。このSwitch移植の報せを聞いてぶったまげた者はさぞや多かったことだろう。私もその1人だったし実際この公式サイトは公開直後にアクセス過多によりサーバーがダウンした。
あのラブデガルドの地を歩き、生きていた頃を懐古する度に必ず思い出す音楽がある。本記事タイトルにある、有名な作曲家・ドビュッシーの「月の光」だ。
この曲を起点にした「moon」の話を本当はツイッターに何個かつぶやいて済ませるつもりだったのだが、長くなりそうだったのでここに書き残しておくことにした。難儀な性分である。自分の話はいつも長い。ツイッターの1回140字では狭いなぁとしばしば思うのだ。
それを差っ引いても、「moon」というゲームはどっからどう切っても手短に済ませられないような魅力ある作品ではあるのだが。"アンチRPG"という称号が有名なゲームという認識の方も少なくないかと思うが、「moon」及びラブデリック作品の良さはそこのみに非ず、という事を言いたいんである。
当時から言われていたが、ラブデリック作品は節々に【毒】を含む。これは、そういう話だ。半分は。
嘘に付け込み縋らせる構図はエグくて甘い
「moon」というゲームのオープニングは劇中劇として「fake moon」をプレイさせるという話はもはや語り尽された箇所であり本題には関わらないので端折るとしよう。この「fake moon」を遊んでいた子供=主人公(=プレイヤー)はTVの中に吸い込まれmoonワールドへと透明人間の状態で放り出されるわけだが、人々から視認されず存在を無視され途方に暮れる主人公を最初に助けてくれるのが、城下町の外に建つ1軒の家で飼い犬・タオと共に暮らす【おばあちゃん】である。
おばあちゃんは目が見えない。見えないからこそ視覚に囚われず主人公の存在を感じ取ることができた、というのは今改めて分析してみるとこのゲームが散々掲げ語る【愛】というものに対してなんとも隠喩的で皮肉が効いているような気もしてくるものだ。
自分の存在を認識できる人に「○○なのかい?」と自分の名前を(ちょっとひらがな・カタカナの表記の差にひっかかりを覚えつつも)呼ばれたので主人公はおばあちゃんのその問いに「うん」と答えるわけだが(ていうかそう答えないと進まないので)、するとおばあちゃんは『主人公』ではなく『主人公と同名の自分の孫』と勘違いして、主人公を抱きしめる。
もうね。これですよ。これがラブデリックですよ。
もちろん自分はおばあちゃんの孫本人ではない。だがそういう事にしておかないと透明である主人公はこの世界に身の置き所が無いし……『死んだと聞かされていた孫がやっと帰って来た』と思い込んだおばあちゃんの希望を砕くのはあまりにも忍びない。
いたいけな老人を優しい嘘で騙くらかす、「fake」から「real」のmoonワールドへと落ちたはずであるのに構図として偽り(fake)から始まる物語。「moon」はそんな物語から始まっているのだ。
この偽りに対する「罪悪感」と偽りにより心に希望を取り戻したおばあちゃんに対する「哀れみ」、抱きしめられ、孫のお気に入りの服を支度し、毎日話しかければ目が見えない中で作ってくれたクッキーを持たせてくれるその純粋無垢の「愛」。
なんともほろ苦く毒性を感じる感情を掻き立てて傷をつけ、しかし最後には甘やかな愛おしさ、愛着をそこに残していく。これがラブデリック節である。
この刻まれた傷が「moon」プレイヤーに残っているのでおばあちゃんを見ると「泣きそう」と言う者が後を絶たず、そして彼女の家に『帰る』たびにBGMとして耳にする「月の光」がこの記憶を想起させ傷跡を疼かせる、忘れられない1曲となっているのだ。
この『おばあちゃんの家に帰ると「月の光」が流れる』という点、moonのウリの1つであった『音楽ディスクを購入して自分でBGMを設定できる』システムの存在によって、結果的によりプレイヤーの脳へと丹念に刷り込まれる形になってたのでは?と時を経た今になって思う。
当たり前だがディスクを購入しなくてはその辺の外を歩いている間BGMは流れないという事であり、購入できる場所に行けるようになるまでの序盤は無音、正確には鳥の鳴き声なんかの環境音のみを聞くことになる。
そうなるとおばあちゃんの家のみならず、お城やワンダの酒場などのBGMが設定されている場所のBGMは存在が引き立って覚えやすく忘れにくい、そんな状態になっていないだろうか?ディスクのお気に入りでもなんでもないけどこれらの曲は脳内で再生しようと思えばできる、そんな既プレイ者は決して少なくないはずだ。
そして城・酒場は行かない奴は行かないが、おばあちゃんの家はアクションリミットシステムによって行動できる時間に限りがある→ラブレベルの低いうちはベッドを頻繁に使わざるを得ないため、必要に駆られて皆例外なく始めの頃は小まめに『帰る』ことになる。自然と聴く機会は皆平等に多いわけだ。心や記憶に残るのもむべなるかな、と言うものである。
「自立」「独り立ち」を逆手に取ったかのようなイベント進行
もう終わりだと思った?まだだよ。
そうしておばあちゃんと"孫"としてしばらくおばあちゃんの家を拠点として暮らすわけだが、割と早いうちに主人公は『自分の家』を得る運びとなる。
家なので当然ベッドが置かれており、行動できる時間の回復とセーブは以降そこでもできるようになる。そうなるとおばあちゃんの家に『帰る』のはあまり必要ではなくなってしまうのだ。おばあちゃんの家は始まりの地であるからして概念的マップ位置としては端っこになる。となると、先へ進み世界が・行く先が広がっていくのを体感しているプレイヤーとしてはおばあちゃんの家は『今となっては利便性の悪いセーブポイント』に価値が下がる。自然と少しの間向こうへは帰らなくなるわけだ。
この流れにおかしい所は何も無い。ステージが進み、拠点が移り、ステップアップを実感するゲーム的な楽しさとして美味しい所であり、おばあちゃんの傍で庇護を受けていたまだまだ弱っちい主人公が此処から少しずつ足を伸ばせるようになる、まさに「自立」の時である。
その自然な「自立」を経て気分・状態が上がっているからこそ、久しぶりにおばあちゃんの家へ『行った』時おばあちゃんがベッドで寝込んでいるのを見た時の下がりよう、落差が効いてくるのだ。
わかりますか。「moon」は罪悪感で2度刺す。
実際におばあちゃんが寝込んだ原因は、哀れにも勇者にモンスター扱いされて殺されたアニマル達のうちの1体である「ヘビー」のソウルのせいとされているが、このイベントのトリガーは『主人公が自分の家を得る』である。もう便宜上アニマルのソウルのせいにされているだけでこのイベントに含まれるもの、というのは当時子供だった自分では考えすらしなかったが今なら深読みできるんである。
死んだと思った孫が帰って来た、と思いきや孫はまた帰ってこなくなる。そりゃあおばあちゃんの心身が再び弱ったとしても「そりゃそうだよな」となろうものだ。立派に「独り立ち」するのが悪いとは言わないけれど、自分を気にかけてくれた存在をどうか忘れないで。たまには思い出して、帰っておいで。おばあちゃんのこのイベントを通して、なんとなく諭されるような心地がしてくるのだ。
おばあちゃんが寝込んでいる間は使えずセーブ・回復地点として機能しなかったベッドが、おばあちゃんが元気になってまた使えるようになる。その事象を以って
「そうだね、この世界において此処【も】自分の『帰る』場所なんだよな。ずっと。」
……などという想いを胸に刻むわけだ。
そして、その想いの傍らに、あの優しくもちょっと胸が詰まるようなメロディが、「月の光」が存在する。2度目に刻まれる感情は、言語化するのであれば「罪悪感」と「郷愁」、だろうか。
この2重に刻まれる「罪悪感」があるから、ドビュッシーの名曲たる「月の光」を聞くとなんだかちょっと、ぐっと痛みを堪えたくなるような心地がするのだろうな、というのがSwitch移植をきっかけに改めて考えた「moon」と「月の光」の話だ。
おばあちゃんは結局『光の扉』をくぐった?くぐらなかった?
さて。ここから話がガラっと変わる。Switch移植が発表される前、「ゲーム夜話」というゲームの考察・語り動画のシリーズの中で「moon」が取り上げられた回があった。
該当発言が後編にあったので後編を貼ったが、前編も面白い動画なのでよければ是非視聴を。
この後編の最後の最後で、"光の扉をくぐる人々のなかにおばあちゃんの姿が見つけられなかった"と触れ、おばあちゃんはmoonワールドで1人、孫の帰りを待っているのではないか?という説を示唆している。
当時は「ああ、そうかもしれないなあ」とこの示唆に同意した。外へと解き放たれた数多のラブをよそに、1つだけ留まり、待ち続けるラブというのはなんともグランドなマザーの趣があるラブであるような気がして、『それもラブ、これもラブ』という月の女王さまのお言葉を体現しているのかもしれない。そう思っていた。
しかし今回「月の光」とおばあちゃんの事を考える内に、必ずしもそうではないのではないか?1人寂しく孫を待って残る世界線よりもっと救いのある世界線の可能性は存在しているのではないか?という考えが浮かんだのでここに提唱していきたいと思う。
まず、考えの起点は『ラブレベル1:愛の寝起き』の存在である。「moon」はmoonワールド内のキャラクター達とのイベントをこなすか、勇者に殺されたアニマルのソウルをキャッチするかで「ラブ」を得てレベルアップするシステムになっている。
そう。イベントか、キャッチかだ。
ラブレベルの存在はおばあちゃんと遭遇してからベッドで眠りについた後、夢の中で月の女王より言い渡される。その時"お前のラブはまだ未熟"とのお言葉も聞かされる。そして夢が終わり、ふたたびおばあちゃんの家へと主人公の意識・視点が移るとそこで初めて『ラブレベルに応じた行動できる時間の制限がつく』アクションリミットシステムが機能しだす。そういうタイミングになっている。
ならばラブレベル1の分のラブは、0から1に上がった分、この世界に0.5日存在する事を許された始まりのラブは、一体どこから来たのだろうか?と疑問に思った事は無いだろうか?
"お前の"という言葉を抜き取って解釈すればこの「愛の寝起き」分のラブは主人公が始めから持っていた分のラブ、という解釈もできるだろう。
あるいは、タイミング的に"光の扉をあけておくれ"という願いと共に夢の中で月の女王さまより託されたラブ、という考え方もできそうである。
それらの方が正直しっくりくる・通りが良いのではと思わないでもない。それを承知でこの2つとは別の説を唱えよう。
moonワールドにおいてラブとは何か?月の女王曰くそれは、
"見えないものを見る為の力
触れられなかった物に
触れる為の秘密の鍵…”
なのだそうだ。
だとしたら。だとしたらだ。
moonワールドの他の住人が見えなかった主人公を心の目で見、誰も触れることのなかった主人公を抱きしめたおばあちゃんは本当は、はじめからラブを持つ者―――”秘密の鍵”の持ち主だったのではないだろうか?
主人公がアニマルのソウルをキャッチしたように、あの時おばあちゃんは主人公のソウルをキャッチし、この世界で生きる事が許されるだけのラブを分け与えた。その結果が0.5日分の『ラブレベル1:愛の寝起き』、共に暮らすおばあちゃんに優しく揺り起こされベッドから出た、まさに寝起きのラブだったんじゃないだろうか。
そう考えると0.5日という時間もなんだか示唆的に思えてくる。
『明るい間は元気に外で遊んでおいで。
けれど、夜になる前には帰ってくるんだよ』
そういうおばあちゃんの気持ちが込められてるような気がしてこないだろうか。私はした。そんな気がした。
鍵を持っているのならば、急ぐ必要、moonワールドの住民たちと同じタイミングで月の扉の前に集う必要も無いだろう。主人公(=プレイヤー)が現実へと帰るべき場所へ帰れたのならば、おばあちゃんのたった1人の孫(=主人公)もまた、定められた【勇者】の鎧から解き放たれて何者でもない1人の少年として帰るべき家へと帰り、そして過日の主人公と同じように迎え入れられたんじゃないだろうか。
”いったい今までどこに行ってたんだい…”
”さあさあこっちに来て話を聞かせておくれ…”
……そうして、月に至るまでの冒険譚を話したかもしれないし話さなかったかもしれない。悍ましい殺戮の物語ではなく、優しいでっちあげの作り話を聞かせる、嘘っぱち(fake)の物語で閉じるのもまた、ありえる解釈かもしれない。
そうした後に、目の見えないおばあちゃんの手を引いて少年はふたたび月へ辿り着き、おばあちゃんの持っている鍵で『光の扉』を最後に2人で開き、くぐったのかもしれないのだ。先に『扉』の外へ出たぼく達・わたし達の見えないところで。
『それもラブ、これもラブ』だと言うのなら。こんな解釈をしちゃっても、おばあちゃん、許されたりしないでしょうか。
22年越しの再会、おめでとう。そしてありがとう。【毒】と同量の【愛】が常に在る、そんなラブデリックの系譜が大好きです。