手の平の中に、世界はあった。

ガラケーって言葉も無かった頃の携帯電話ゲームとか昔のゲームとか、他なんやかんやを書き残しておきたい、そんなブログです

Vtuber【懲役太郎】から読み解くその活動の骨子、という話

 

(※過去記事あります。↑の「懲役太郎」のカテゴリリンクから見られます。ご活用ください)

 

www.youtube.com

 

 Vtuber活動歴も2周年を無事迎え、チャンネル登録者数は18万人を超え、「作家」として書籍を、「歌手」としてCDを出して文化人枠の名実もほしいままにしているVtuber界のアイドル、それが【懲役太郎】である。

そんな彼が『なんのためにVtuber活動を行っているのか?』という、根本的なところの話は後発のファンやライト層にはここまでくるとなかなか伝わり切ってないと考えた方がいいだろう、というのが最近の、いちガチ勢としての所感である。

そして当ブログを見返してみると、なんともお恥ずかしながらこの部分に対するしっかりとした掘り下げが抜けていて甘いな、という事実に気づいた。手抜かりである。

なのでここらでひとつ、知らない人に伝えるために、また自分のために書き記し、折に触れ立ち返るべく残しておこうと思う。今回はそういう話である。

ただ予め言っておくと、「こう言ってたよ」というソースは出せるところは出してはいくがあくまでこれは1人のファンが視聴してきた上での「こういう事だと思うんだよなあ」というひとつの考察であるので、ここに書かれている事が絶対に正しいわけでもない、というのはどうかご留意いただきたい。疑問や疑義・反論があるなら自分でスコップ持って掘るんだよ。ひとさまのアウトプットは常にお待ちしてます。

 

 

 

『前科のある人々』の存在と、更生・社会復帰とは?を考える

 

youtu.be

 

Q.あなたにとってVtuberとは?

A.社会復帰のための一環、と考えております。 

 

 人によっては、上記のアンケート企画コラボ動画におけるこの返答はウケ狙いのギャグに見えるかもしれない。

しかしところがどっこい、これは全くふざけてない大真面目な答えであり、「懲役太郎」の活動意図の核、そのひとつであると感じている。それを裏付けるものとして、あるNPO法人に言及した件がある。

 

youtu.be

 

motherhouse-jp.org

 

こちらのHPや、過去の生放送で太郎さんも何度か言っているのは【シャバに戻っても身の置き所が無いから、再犯して刑務所へ『戻る』選択肢を採る再犯者は実在する】という、いわゆる元受刑者・前科者をとりまくひとつの問題だ。再犯抑止に一意の、唯一の正解は無い。人に合わせた、ケースに合わせた対処が必要というのはどんな分野にも言えることであり、その「ケースに合わせた対処」のひとつとして、

 

『真剣に、犯した罪を反省し、受けた罰を経て更生せんとする人を社会側が迎え入れる』ことの重要性

youtu.be

 

……を、"前科三犯"という当事者として身体を張って、声を上げて啓蒙しなんでもない一般的な人々に意識させ、そうすることで巡り巡ってそういった前科者の更生・社会復帰を健全に促していくという、遠大なお考えがあるのがこの「懲役太郎」というおじさんなのである。

これに対して「前科者に甘い顔しろっていうのかよ!」と反射的に口走る人もいるがそんな事は言ってない。「『前科者』というラベリングを見て脊髄反射で排斥すべき存在だと糾弾する事は『必ず正しい事』ではない」という話であり、これは【懲役太郎】コンテンツ全てで共通してそれとなくこちらに伝えている"よくよく考えて下さいね"という話になる。

もし隣人がかつて罪を犯し塀の中に居た過去があったら。

もしそれが知人や友人であったら。

もしいつか家族や、果ては自分がそうなったとしたら。

そういう事を常にではなくとも、【懲役太郎】コンテンツに触れたときに少しだけでも、頭の片隅で考えてくれる人が増えれば太郎さんも活動の甲斐があるというものだろう。おそらく。

同時に世の中を生きる、かつて塀の中に居た人々の目にとまって『俺たち』に希望はあるぞ、というメッセージを伝えられるように日々活動とその実績を積み重ねる、先ほどの引用のように社会復帰するためのそのルート、その手札を晒して示しているのだ。

 

なのでそういう活動の一環としていつかCAPICさん(※刑務所作業製品を売ってるとこ。https://www.e-capic.jp/)からお声かけとか来たらいいのになあと日々思ってたんですけど太郎おじさんの方が「もういいわ」って言ったのでいいです。来年の全国矯正展はやるなら行きたいけども。

 

”誰かの何かのために”身体を張り、種を撒き、道を拓く人

 これはもう本当に、折に触れ幾度も、時に言い回しを微妙に変えながらも「懲役太郎」がお題目のようにして唱えているひとつの動機である。

 

youtu.be

 

この回の生放送の、特に7分43秒ごろからの話とか、

 

voicy.jp

 

あるいは、Voicyのこの回でこぼした"誰もがやってない分野を切り拓いてきてるつもり"という言葉にその想いは集約されている。

で、この集約を読み解くとこれがまた非常に中身が詰まりに詰まっていて語るに難儀するのだが……そこをなんとか、大きく3つに分けて話を運ぼう。

 

1.【懲役太郎】をつまびらかに語ることで→色んな事を踏みとどまらせる・未然に防ぐきっかけを植えていく

 Vtuberとしてのエンタメ的な演出・誇張・脚色をまぶしたコンテンツ、という形にして出してくる太郎さんの知識や経験は「赤裸々」などという単語で収まらないほどに明かしに明かしている。

 

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刑務所に服役中の頃に、実際に性犯罪を犯した人から直接聞き出した話とか、

 

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「ナイジェリアの手紙」と呼ばれる手法の詐欺に遭遇した話とか、

 

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かつて確かに存在していた、この世の地獄の話とか、

 

youtu.be

誰のことかはわかんないんですけど(すっとぼけ)ある懲役受刑者の恥ずかしいエピソードを挟みつつの刑務所のためになる話とか。

 

 こんなにも何から何まで隠さず誤魔化さず惜しまず、「懲役太郎」というひとりの人間のことを表に出しているのはそうすることで、『知ること』で防げる事態は数多くあるからだ。

かのVtuber・ゴルンノヴァ総統が残されたお言葉で言うところの"濃厚な『しくじり先生』"である、刑務所で経験した数々の話と『前科3犯』という「懲役太郎」の存在タグは人々に「こうはなるまい」と思わせて、衝動的に罪を犯さないように、犯したら「こう」なるぞ、という抑止を刷りこませる意図も含んでのことであるし、犯罪にまつわるあらゆる話は頭の片隅にでも残れば「あっ、このままだとこういう犯罪に遭うのでは?」という、被害者を生まない予防のみならず「あっ、このままだとこういう犯罪の片棒を担がされるのでは??」という、加害者を生まない予防にもなりうる、そういう所にまで至る話をしているのだ。

拘置所、刑務所で世間から隔絶され、その間に法律知識や文学といった知識・情報に触れ続けた結果その事を痛感した彼だからこそ、『知ること』の大切さ、その価値を語る言葉には実感がこもり、重みが出てくる。

その重みが、一時の感情に浮かされて今にも踏み外そうとする足を引き止める重石になれば【ひとりの人間をコンテンツに仕上げる】という、ひとつの身を切る行為もやってみた意義があるというものだろう。

 

2.色んな事にチャレンジしていけば→○○をやりたい!という人が効率的に夢へのルートを進む一助になる

 冒頭で述べたように、【懲役太郎】名義の書籍が出たしCDも出たんである。これまでにも「JODY BOY」(https://www.jodyboy.shop/)というアパレルブランドの監修の案件をいただいたりと、活動の分野を広げ多岐にわたって活動し、既存のVtuberではあまり前例の無い事へ意識的に手を伸ばしていこうとしているのが「懲役太郎」という50代のチャレンジングでハイカラなおじさんである。誇らしくないの?もっと褒め称えてフロア沸かせてこ、世間。

とはいえこれも―――やりたくない事はきっぱりとやらないおじさんなので『自分がやりたいと思ったから』という動機も含まれはするが―――色んな事に挑むようにして活動するのは後に続こうとする誰かのために道の無いところから草の根を分け、試行錯誤しながら切り拓いて、結果を出して轍(わだち)とし、成功すればそれをなぞれるように、失敗すればそれを繰り返さないようにという、年長者として若い者に背中で語るというおじさんのカッコイイ所、だったりしている。

 ここのところを是非他のVtuberの目に留まってバンバンリスペクトされて欲しいのがファン心理というものなのだが、どうも捗々しくないように思えるのがもどかしいところである。

だって、例えば歌手になりたい!アイドルになりたい!大きな夢を叶えたい!といった大志を口にするVtuberは沢山居るのにな?と、下々の一般人としては首をかしげてしまうわけだ。

本当に心から「歌手」というものになりたいという渇望があるのなら、古くは「イカすバンド天国」の時代からあるように、CDを出すレーベルへ片っ端から自分の歌のデモ音源を送りつけるようなパンク根性で動く歌い手の一人や二人いておかしくないのではないか?あらゆるコネを繋いで繋いで音楽関係の人脈に潜り込む貪欲な奴の存在がどこかで確認されてもおかしくないのではないか?……そう思うも、そんな話はとんと聞こえてこない。

みんな事務所やレーベルに『拾われて』お膳立てをされて夢が叶う日をお行儀よく待っている。そんな風に思えてならないのだ。まぁだからといって令和にもなってそんな昭和的な行儀で夢に手を伸ばすのもどうなんだ、という意見はともかくとして。

 『Vtuberとは商品である』、だからVtuberは演者として運営に紐づけられて思ったより自由ではなく、夢を叶えていただくために誠心誠意演者として働いていく……という流れに対して「手ずから夢をもぎ取る手段は在るぞ」と自分の活動、その結果でもって示す。

だから私は、一般のファンのみならず同業のVtuberにも【懲役太郎】を好きになってくれる人がたくさん居て欲しい。好きになってくれたその人たちの夢や願いのためにも、だ。"これからは個人の時代"とは「懲役太郎」おじさん本人の言だが、私個人としてもその言は支持したい。今は、ひとつの魂の煌めき、その軌跡が尊ばれる時代であるような気はしているからだ。

 

3.誰かの力になってあげたら→その人が次の『誰か』の力になってあげられる、【助けのバトン】を繋いで欲しい

 これはもう、最近伸び盛りのVtuber金美館通りの藤村さん】(@ofuronohujimura)との話を語った時にはっきりと言っている。

 

youtu.be

 

藤村さんは言いました。「何故ここまでしてくれるんですか?」、って言ったら「いや違います。私が次に、次にね、この子に応援してあげて下さい」って「私がした事と同じようにしてあげてください」っていう風な約束をしました。

私がした事、私が教えた事を貴女が次に「私がこの子に!」っていうことを教えてあげてください。

要するに、技術や伝承のバトンタッチをしてって下さいていうことなんですよ。

(アーカイブ内、15:30ごろ~15:56ごろ)

 

つまりはそういう事である。いかに「懲役太郎」が【誰かの何かのために】と思って1人で頑張っても、彼はヒトであるからして手を貸そうと伸ばせる手は2本しかない。どうあっても限界というものが存在するわけだ。

その限界を超えて助けが必要な誰かに手を届かせるには、他者の手を借りるより他に無い。1人の2本で足りなければ2人の4本、それでももうちょっと足りなければ3人で6本、4人で8本、n人でn×2本……そうして人が増え手が増えていくことで届くもの・繋がるもの・広がるものがある。

この人はそれを信じているし、たぶんどこかで実感としてそれを知っているのだろうと思う。

「懲役太郎」はそれを証明しようとしている。だから私は、僭越ながら、本当にものすごく身の程知らずにもおこがましく僭越ながらであるのを自覚した上で、その証明を証明したくてやっている部分がある、ということだ。

『自分が手を貸して立ち直った人・身を立てた人がまた別の誰かの力になる』ところを観測する事ができたら、「懲役太郎」というおじさんが世代のギャップやらなにやら色々全てに挑みながら続けた活動を「やってみて良かったな」ときっと喜んでくれると思うのだ。だから、例えば『懲役太郎電話相談』を遠慮したり躊躇してる人に「いいぞ。」と言ってまわったりしていたわけだ。

まず、「懲役太郎」が伸ばした手を取ってくれる人からそのバトンは始まるからだ。

多くのVtuberとファンとの距離感の尺度で測れば尋常ではない話で及び腰になる気持ち自体はよくわかる。わかるけど、そういう事なので遠慮はしなくていい。その事を今後も伝えていこうと思う所存だ。

 

悪事が千里を走るならば、善事に千里を走らせる事もまた、等しく可能ではないのだろうか?

 「懲役太郎」というおじさんは自分に振りかかってくるアンチコメントに割と都度相手をして「そういうの許さんぞ」という態度を示している。

これは「俺に言われている事なんだから俺が直接相手する」と態度で示すものであり、簡単に言ったら『ファンでもなんでも誰でも、言われた本人以外が代理戦争おっぱじめたらいかんよ』という抑止の意図も含まれていて、そこの部分をさっと汲み取るだけでもためになるものであるが、アンチを許さない事はもっともっと根本的なことの理由で諫めている。

 どこの回の生放送だったか、"そんな事をして何になる?"と問うた、その一言に全てが在る。程度の低い誹謗中傷はもちろんだが、相手を心配するための反対や制止とか、自分が被害を受けた事に対する文句だとかそういう所にまで及ばせて出て来た一言だ。

 

Q.そんな事をして何になる?

 

これを幾度か、『何になるか』を先を読んで読んで考えて、じっくりシミュレートして向き合った人が果たしてどれほど居るのだろうかはわからないが、少なくとも私はこの問いの答えはすごくシビアで残酷であり、でも残酷であることをよく自覚しなければいけない事なのか、という納得に至った。

 

A.本当に、本当に何にもならない。

 

ならないのである。マジにリアルにガチに誇張無しに、ネガティブな言葉には生産性が無い。

今挙げた中に『相手を心配するための反対や制止』をも含んだが、これを除くべきだとは思っていない。「止めておきなよ」と言われて「うん、わかった」となればとにかくその事象はそこで止まるからだ。

そこから「じゃあ別のことをしてみるよ」となるかどうかは状況だとかその人の思考であるとかによって左右されるものであり、必ず止めたところから別の方向へ向かうなどという保証は無いのである。

そしてその止める側だとかネガティブな言動で攻撃する側の人間そのものも、それをやってじゃあ何か知識の蓄積だとか経験だとか、少しでも何かしらを生むのかといったら見ていればわかるだろう。そんな事はしない。ネガティブなこと、他害的なこと、差別的なこと、それらの言葉を文面にして撒き散らすのがアイデンティティになってしまった人間は次の攻撃対象へと河岸を変えてひたすら続けるばかりだ。踏み荒らして回り、焼き払って回り、ただただ何も残らない・残させないとうごめき続ける、攻撃する者らのなんと多いことか。

 なのであのおじさんはひとの足を止めさせるアンチはのさばらせないという毅然とした態度を取るし、自分の口で、自分の感情のままに表立って愚痴や文句はあまり言わないようにしている。それをしている間自分の足が止まってしまうからだ。

代わりに、という言い方をするとなんだかしっくりこない部分はあるが、「懲役太郎」というおじさんは「そんな何にもならない事言う口があるなら俺の事褒めるのに使ってよ」などと冗談めかして言うのだ。

そういうとこだぞ。そういうとこ。

そうやって核心を照れくさいからって逸らすけど逸らした先が「俺を褒めてくれ」ってやってる事が完全にアイドルのそれだよそういうカワイイおじさんに射貫かれるガチ恋勢がどんだけ居ると思ってるんだ少なくともここに1人おるわ!おったわ!ありがとうございます今日も俺の推しがこんなにもカワイイ!!!!!!!

―――違う。落ち着け。今そっちの話じゃない。

いやとにかく、そういうとこなのである。これはつまり【人を悪く言うのに割く時間や思考を、逆のベクトルに向けた方がいくらも生産的である】という結論にあの「懲役太郎」というおじさんは至っているからそういう事を言うのだ。そしてこの結論を「できるよね?」と、こちらへ投げかけている。

こんな自分の善性の信じられ方あるかよ、と屈するしかないんであるこんなもの。

 何度でも言いたいいわゆるサビのところというやつなんですけど、"前科三犯、893番"の半生を生きたおじさんが人間の性善説を信じるという着地点に至るのはあまりにもこの世の希望を信じさせるのに充分が過ぎる。否定ができない。

 そんなんだから【懲役太郎】にハマった1年で随分を何かに対してわざわざ労力をかけて悪く言う行為はめっきり減った。よっぽどによっぽどだなと思って我慢がきかない時はあるので、完璧な善き人間にはなれていないけどなったらなったらそこまでいくのは不健全な気がするからまぁいいかなと思うんですけども。

この「懲役太郎」という男の姿勢と、それを倣うことによるメリットは広く理解され浸透して然るべきであると、私は理解して倣い、本当に望外の収穫を得たと実感している立場としてこうして記し、表明するものである。

善を唱え築き広げ、悪がこびりつけるようなスペースが無いように埋めていく。今の世界を生きやすくする術は、多分ここに在る気がするのだ。

 

これで大体網羅はできましたかね?いやあ満足満足

 ということで、今回はこれくらいにしておくとす。

最後にこの記事で語った【懲役太郎】の活動が内包するものを読んでいただき理解して欲しい事として、『こういう事なのでまたぞろなーんかやりだしたなって時に「迷走してる」とか言う人が減ったらいいなぁ』というのを表に出しておきたい。

だいたい何をやろうと、その意図を辿って行けばこれらの動機のどれかしらへ繋がるのでその芯はVtuberを始めてから今に至るまでブレてなどいないんである。だから色々やってるんだよあのおじさんは。

そういう所も含めて、【懲役太郎】が理解できれば視聴はもっと面白く、楽しくなる。その一助になりたいこの、一人の様子がおかしいオタクの想いを受け止めていただければ幸いである。