手の平の中に、世界はあった。

ガラケーって言葉も無かった頃の携帯電話ゲームとか昔のゲームとか、他なんやかんやを書き残しておきたい、そんなブログです

「クロノ・トリガー」への愛を忘れられないのは、あの世界を救ったのが「わたしたち」だから

 新たなる元号、令和になって数か月が経った。

去りゆく平成を惜しむように人々はそれはまあ色々と、「平成最後の○○」だったり「平成で一番○○だった○○」とかやって30年という時をひとくくりにまとめにかかっていた。

その中のひとつで、ファミ通が行っていたアンケート“平成のゲーム 最高の1本”の結果を目にしたゲーマーは多いことだろう。

 

www.famitsu.com

 

(狙ったわけではないだろうが結果として)平成終盤滑り込みであった2017年に発売された、世を沸かせた名作「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」・「NieR:Automata(ニーア オートマタ)」を抑えて1位に輝いたのが、1995年発売の「クロノ・トリガー」であった。

この結果に対して「クロノ・トリガー」が1位を獲ったのは下2つよりゲームとしての実力・魅力が高かったのではなく当時の思い出補正ではないのか、という意見もネットで見かけた。実際そういう部分もあるだろう。

しかし、思い出補正・当時最高レベルに全方位クオリティが高かった、それだけで1位が獲れた理由の説明とするにはあまりにも足りない気しかしない、と思った人もいるのではないだろうか?

本作を1位たらしめたのは何か?その答えの1仮説、そのピースを自分は昨年末のとある動画で実はもう手に入れていた。

 

 

youtu.be

 

該当箇所が後編にあったので後編のリンクを張ったがよかったら前編から見ていただきたい。

こちらの「ゲーム夜話」というゆっくり解説動画は個人的に好きで時々視聴している。

この動画の中で取り上げられた「クロノ・トリガー」のあるエピソードを聞いた時、「嗚呼、だからこのゲームは愛し"続けられ"たのか」とひとり納得がいってとてもスッキリした。

 

"物語終盤で主人公が死ぬ"

 

ストーリープランを担当した加藤正人氏が発案し、堀井雄二氏以外のスタッフが笑ったと言われるこのアイデアこそが、「クロノ・トリガー」を不朽の名作であると本作を遊んだプレイヤーに信じさせるだけの作用を齎したのだ。

 

 

失意の共有、からの荒療治

 幾度も時を渡った末、古代の時代にてラスボス・ラヴォスと直接対峙し、その強大な力の前に打ちのめされ、仲間が絶望する中で主人公の少年・クロノはひとり立ち上がり、他の皆をかばうようにしてラヴォスの攻撃を受け、消滅し、死亡する。

これはただ衝撃的な展開であるだけでなく、ゲームというものの不文律・お約束に倣わなかったものである。普通、主人公が死んだらゲームオーバーなんである。そいつがいなくては物語は進んではいけない、物語は望ましい終わりを迎えないとされ、主人公を中心として物語と世界は回っている。

でも「クロノ・トリガー」はそうではなかったのだ。

 世界や物語からしたらヒト1人が死ぬのは立ち止まるに値しない、と見做される残酷さに晒されながら、残された仲間であるマール達を操作してゲームは進む。

ラヴォスによって大ダメージを受けた世界で、僅かに残った土地と人を見て回る間にプレイヤーに浸透し、定着していく感情はけして良いものではなかったはずだ。

何か寒気がするような心地だったかもしれないし、シンプルに寂しい・悲しいだったかもしれないし、「これからどうしよう、どうなるんだろう?」と途方に暮れる気持ちもあったかもしれない。

それらの感情は、プレイヤーが操作している仲間達の感情とぴったり同期していたはずなのだ。

プレイヤーはずっとパーティー編成で固定で入れろとシステムに指示され続けていた「主人公」を喪い、仲間はこの冒険をずっと先頭でまとめ引っ張ってくれていた大切な仲間であり「リーダー」を喪った。この喪失感と付随する感情をフィクション/リアルの垣根を越えて分かち合うというのは、良い作品と言われる要素のひとつである『作中キャラクターに共感・感情移入できる』という点の極致であると言えないだろうか?

今までクロノをワンクッション挟んだ距離を感じる仲間キャラクターであったのがこのイベントによって連帯感を抱く本当の"仲間"になる、この点だけでもクロノの死をしっかりと必要あるものに仕立て上げた製作スタッフ達を『ドリームプロジェクト』と称したのは大げさではなかったなと思えるのだ。

 

 この悲しみはどのようにして振り払われるのかというと、まず訪れるのは「クロノ・トリガー」ファンが忘れようとも忘れられない小物三下悪役・ダルトンによる理不尽である。

やっと手に入れた能動時に時間移動できる術であるシルバードを奪い、汚い不意打ちで捕らえられ目覚めれば装備もアイテムもお金も全部取り上げられているというとんでもない展開に引きずり回されると表現して差し支えない。

今改めて考えてみると主人公死んだ後に持って来る展開じゃなくない????という気がする。結構なギャグ展開で捕まるし。疑問は拭えないが実際これで、

 

「あの野郎絶対に許さんからな!!!!!!!」

 

というファイトは湧いていたので話の運びが巧みなんだなぁ……と認めざるを得ないのもまた事実である。すげぇやドリームプロジェクト。

 この『クロノ死亡~ダルトン許さんのでシバく』までの間に特記しておきたい点として、仲間のひとり・エイラの存在に言及しておきたい。

エイラは原始時代の生まれ育ちにある中で、【闘う】ということを誰より何より理解しているような女である。上記展開の中でこの点はかなり強く表に出ていて、クロノの死に対して気丈に泣かないと宣言し、捕まって装備を奪われ戦闘に支障が出る中、エイラだけは拳ひとつで戦っているので戦う手段を奪われようがなく、エイラがパーティーにいる場合は装備を発見し取り戻す間エイラひとりでの戦闘が可能という救済措置にもなっている。

悲しみに打ちひしがれようとも、どれほどの過酷に見舞われようとも、闘わなければ生き残れない。そして、勝利し生き残った者は前を向き、進み続けなくてはならない。

エイラが示し続けるヒトの生き方の答えは悲しみ傷ついているプレイヤーとマール達の心の応急処置として効果的に機能している。

イイ女がいるゲームは、それだけで高評価に値するものだ。

 

喪失感を埋める選択肢とそのリターン

 閑話休題ダルトンを倒しアイツが飛べるようにシルバード改造してくれたわーもうけもうけ、と帰って来たマール達にひとつの情報が寄せられ北の岬なる地に赴くと、ある人物と対面することになる。

 

魔王。

 

彼はいわば中盤の山場として、打倒すべき敵として戦った相手であるがここで彼もまたラヴォスとそれに魅入られた古代の女王・ジールの被害者でもある事が明かされる。

そしてここでひとつの選択肢をプレイヤーに提示してくるのだ。

それでも魔王を討つか、討つまいか、だ。

この分岐はクロノ離脱をケアするアメとして非常に良く効いている。

 ゲーム的には魔王を仲間にすることで戦力の補填になり、天属性(他ゲームで言うところの雷属性)だったクロノの対極に位置する冥属性の仲間という点でも魅力的だ。しかも実際仲間にするとサンダガ・ブリザガ・ファイガと他属性まで使えて優秀だし。

ストーリー面では魔王を倒すかどうかはそれなりに迷うところだ。魔王のこれまでの生は壮絶であり同情できる部分もある。しかし彼には討たれるだけのいわれも同時に存在しており、過去の所業は無視しがたい。

魔王はゲーム内における中世の時代で魔族を束ね人間と戦争を起こした。その時代で仲間になったキャラクターであるカエルが名前の通りカエルの姿になったのは他ならぬ魔王の呪いによるものであり、またカエルの親友・サイラスを殺した張本人だ。

カエルからしたらラヴォスよりも魔王の方がより身近な仇であり手を組むなど業腹であるだろう。カエルの事を思うならばここで彼の本懐を遂げさせるのは大いにアリだし、魔王を倒せばエンディングで本当にカエルの呪いは解け、グレンという人間に戻った姿が見られるご褒美もある。

どっちを選ぶのが自分の心情として納得がいくか?より見たい物語はどっちの選択肢の先にあるのか?ここを天秤にかける選択である点は特にまっさらな初週であれば悩ましさ極まると言えるだろう。

何週もプレイしてすっかり慣れると実利で考えて魔王加入が鉄板だろうとなるのはご愛敬ということで。

 主人公の死という衝撃を、魔王という思わぬ人物が仲間になる可能性という別の衝撃でぶつけて来られる。その直前の仕打ちという欲圧もあってか、豪勢な「昨日の敵は今日の友」展開に当時のキッズ達は狂喜乱舞し、クロノの死という悲しみからうまいこと立ち直ったのである。

 

 

『星の夢』の観測を託されたのは誰?

 魔王がパーティーにINするか否かの選択が済んだ後、シルバードに乗り込むと実質ラストダンジョンである「黒の夢」が複数の時代に跨って出現する。

これにより解禁される"ある事柄"が、今回の本題であり今記事のタイトルに関わる話となる。

 

「黒の夢」出現を以って、このゲームはもういつでもエンディングへと至る事ができるのだ。

たとえ、クロノが居なくても。

 

これまでの本文で自分はクロノを「主人公」と書いたが、実はクロノは構造として最後まで「主人公」で居続けているわけではないのだ。

必要なものを揃えクロノが死んだ瞬間の時間軸から彼を取り返した場合でも、以前のようにパーティーに固定で入れなさいと強制される事はもう無い。クロノをゲーム中に取り返さなかった場合エンディングでクロノを取り返しに行く展開になるわけだが、星に巣食った外来寄生存在であるラヴォスの打倒、その決着においてクロノは必要不可欠ではない。1度死亡したことで「主人公」の任を解かれたかのような形になり、彼は他の皆と同列の"仲間"となるのだ。

ならば空いた「主人公」の席に代わりに座ったのは誰か?言うまでも無いだろう。

わたしたち、【プレイヤー】である。

物語の行く末、ひいてはあの星の行く末をどうするかという選択権はこの時、クロノ達ヒトに対する高次の存在である"星の夢"から、ゲームに対して高次の存在たるわたしたちに託されるのだから「クロノ・トリガー」は実は最終的に"わたしたちが星をどんな形でラヴォスから救うかを選ぶ物語"であるのだ。

だから「クロノ・トリガー」は1位になったのだろう、というのが自分の提唱する仮説である。「ゼルダBotw」はあくまでリンクの物語だし、「ニーアオートマタ」も作中主人公を飛び越えてプレイヤーに物語が渡されるという事ではないはずだ。

実は冒頭のファミ通のランキング、4位は「FF7」なのだがこのゲームも主人公はクラウドであり、途中離脱はあってもあの物語はクラウドの物語として最後の決着が着き、終わるのだ。PSの名作筆頭に挙げられる「FF7」にだって思い出補正は同じようにあったはずで、しかし「FF7」が1位にならなかったのはここの差だと主張するものである。

ただ単にマルチエンディングだから面白い、のではない。幾つも分岐があった中で選んだ1つの結末は、星より託され仲間と共に辿り着いた【わたし】の選択だったから面白かったのだ。

今でこそゲーム側がプレイヤーに手を伸ばしてくるような・こちらを見ているような、フィクションが現実を触りに来るゲームはちらほらと散見されるようになったが、本作が発売されたのは1995年である。

クロノ・トリガー」が当時唯一この感覚の良さを見せたゲーム、というわけではないだろうが『ローグライクゲーム』の概念と良さを爆発的に広めた功労者である「トルネコの大冒険」と同じように、フィクションがリアルに干渉を試みてくる構造の良さを広くゲーマーの無意識へと、それとなく植え付け焼きつけていったのは「クロノ・トリガー」だと言っていいのではないだろうか。

 この託されたタイミングが、長い事クロノを通して物語を進め続けた末の終盤に、というのも多分効いているのだろう。8位にランクインしていた初代「ポケットモンスター」なんかは最初から「あなたのものだよ」と世界と物語を渡されるが、「クロノ・トリガー」はあのタイミングでエンディング分岐の選択権を委ねられることでここまで歩んできた道のりをまるっとラッピングされて贈り物として渡されたような印象を受けた。

 

愛と真心のこもった『贈り物』を受けて、愛に応えてあの星を救う。

 

クロノ・トリガー」はゲームという箱の外、高次の次元で"星"と愛を交わしたゲームだったんである。

それでも思い出補正と言えば思い出補正なのかもしれないが、その思い出に含まれているのは当時すこぶる画期的な形の【愛】だった、というのが自分なりの仮説であり自論である。

この愛が人々の中から薄れたり上書きされたりしない限りは、まだまだ何かの拍子に語り継がれていくゲームになるのだろう。きっと。