手の平の中に、世界はあった。

ガラケーって言葉も無かった頃の携帯電話ゲームとか昔のゲームとか、他なんやかんやを書き残しておきたい、そんなブログです

「リトルボムガール」は文学

 

 インターネットの大海で生まれ定着した名言・スラングの中のひとつに

CLANNADは人生

というものがある。

これは、真に魂に響く作品は万の言葉を尽くそうとも語り切れるものではなく、いっそたった二文字の熟語に想いを込めるという形の方がかえって良さが伝わるものだという、一種の表現の極致である。

この偉大な先人に倣い、今回はまず言わせていただこう。

 

『リトルボムガールは文学』である。

 

 

 

定められた終わりへ向かう物語

http://blog.zxm.jp/wp-content/uploads/2019/02/PromoImage_Title.png

https://play.google.com/store/apps/details?id=com.zxima.littlebombgirl

 

 じぃーま氏(@somebow_ippan)のゲームと言えば『優しく暖かいポストアポカリプス』だが、本作はちょっとだけ毛色が違う。

タップしてゲームを始めるとまず最初に謎の物体がAI起動シークエンスなるものを行いだす。するとそこには手足の無いトルソー状態の女の子の姿がホログラムとして映る。なるほどこれがその「AI」とやららしい。見聞きする感じまるで普通の少女みたいだ。

遠隔で通信してきた、主人公を知る男の口から明かされるこのゲームのゴール地点は、「目の前にある爆弾のAIに教育を施した上で敵国をその爆弾で攻撃する事」である。国という形が存在している程度の文明がある世界というのは地味に珍しい。いつも大体そういうのが跡形も無く根こそぎ無くなった後の話なのに。

かくして爆弾の「先生」となった主人公はAIの「爆弾ちゃん」を、通信相手の男……というか男の上についてるお偉いさんからの定期テストをクリアして優秀な爆弾へと育てるべく"授業"を行う。テストをクリアできないとその時点で爆弾は投下されゲームを終わらされるが、だからってテストをクリアし続けても最終的には爆弾は投下される。これは絶対に変わる事はない。引き延ばす事はできる。でもエンドレスにはできない。いつか来る"その時"のためにすべき事をしなくてはならない、この情緒に溢れた設定のすごさは文字に起こすだけでは伝わりにくいことだろう。

本作は今までのじぃーま氏のゲームには無かった【絶対の別離が横たわる物語】なのだ。

 

爆弾ちゃんがカワイくて世界が爆発しちゃいそう

 【絶対の別離】のほろ苦さを引き立てるには、別れを約束された相手に対して好感や愛着を抱かないことにはどうしようもない。どうでもいい相手と離れ離れになったってそこにドラマは生まれないのだ。では少女の顔をしたホログラムAIの爆弾ちゃんはどうなのか?正直にハッキリ言ってやろう。

 

カワイイ。

ハチャメチャにカワイイ。

触れない?四肢が設定されていない?何か問題あるかね?

個人的にはじぃーま氏の作りだしたキャラの中でいっちばんカワイイと!!!思っています!!!

 

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最初からコレだもん。カワイイ…

 

あんまり賢くないような感じの、あどけなくて表情もコロコロ変わって楽しくなければむくれて照れれば頬を染める、その仕草が全体的に非の打ちどころ無くカワイイが、自分が一番最も素晴らしくカワイイんだよとハートを射貫かれたのは、上の画像にあるように爆弾ちゃんは主人公を「せんせぇ」と呼ぶ点だ。

「先生」ではなく「センセイ」でもなく「せんせー」とかでもなく、「せんせぇ」。

この表記ひとつで舌っ足らずでちょっとあざといカワイさというのがよく伝わる。じぃーま氏の腕前が光っているのを感じて欲しい。

 こうしたカワイイ・カッコいいなどの【キャラクターに魅力があるか?】はシミュレーション系、ストラテジー系のような個の無いゲームジャンルで無い限りはおろそかにせず考えておかねばならない要素だろう。キャラが魅力的だからたくさん一緒にいたくなり、幸せにしてやりたくなり、結末を見届けてやりたくなる。

じぃーま氏のゲームはどれもその点が非常に良くできている。皆素敵で、皆カワイイのだ。その極致が爆弾ちゃんと言っても過言ではないだろう。なるほどこれが無機物萌えってやつだな!

 

「せんせぇ」と爆弾ちゃんの物語をプレイヤーは観ている

 「Time Machine」の頃はゲーム内の主人公という存在はシンプルでありどんな存在か情報は出てこず、主人公はそのままゲームを操作するプレイヤーと同一と言ってよい構図になっていた。

そこからいくつかの作品を経て辿り着いた本作では主人公である「せんせぇ」はプレイヤーとはきっぱりと別の存在として描かれている。

というのも、授業を進めていくと判明するのだが爆弾ちゃんと「せんせぇ」はそれぞれひとつの秘密を抱えているのだ。

 

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そうなんだよ。あと爆弾ちゃんのその口癖もカワイイねぇ

 

ネタバレなのでもちろんハッキリとはここでは書かないが、正直爆弾ちゃんの秘密はプレイヤーの想像のつく範囲の秘密であるのだが、「せんせぇ」の秘密が初めてオープンされた時、「じぃーま氏のゲームの中でも結構シリアスな話だなこれ……」と思わず唸ってしまった。

そしてその秘密が存在する以上、プレイヤーは「せんせぇ」にはなりきれない。きっぱりと剥離しているのだ。「せんせぇ」の秘密は「せんせぇ」と爆弾ちゃんだけが共有できるものとして扱われるのがプレイしていると見てとれることだろう。

この秘密がマルチエンディングである本作のエンティング条件にも大きく影響を及ぼしている。迫る爆弾性能テストの期限の中で、1人の男と1つの爆弾が抱えた秘密に対してプレイヤーはどういう結末へ導いていくのか?というシリアスな緊張を味わいながら、爆弾ちゃんへ施す総数99の授業を通した彼らのやりとりをテキストで読んでいく。

授業では選択肢が発生するので単純にテキストが99本あるわけではなく、実際はもっともっと分岐する分、文の量は豊かだ。今までのじぃーま氏の制作したゲームの中でもぶっちぎりでテキスト量は多いと思われる。

 

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授業の選択肢はこんな感じ

 

形こそアドベンチャーゲームと銘打たれているが、「リトルボムガール」はこのたっぷりの文章量によって、ひとつの小説のような、あるいは映画のようなものに仕上がっていると言ってもいいくらい本作はストーリー性が高く、遊びごたえ・読み応えを強く感じられる。

今回のタイトルにもしたが、「リトルボムガール」は文学である。

「DropPoint」のロボット君との疑似親子めいた関係も中々に文学であったが、今作はそれ以上に文学だ。授業の中で交わす言葉の端々に爆弾ちゃんの心境がほんのり滲み出る瞬間の、AIでありながら情緒あふれるその精神性はある種の美しささえ感じる時があった。

 そしてストーリー性が高いからこそ、声を大にして主張したい事がひとつある。

 

「リトルボムガール」は必ず、必ず!ベストエンディングを!見よ!

 

本作の割と大事なところなので文字サイズを大きくして主張してみた次第である。

これもネタバレもネタバレなので遠回しに語らざるを得ないが、本作に限ってはベストエンディングまで至って初めて1つの物語の終わりとして幕を降ろせる。そういうものになっていると感じられるストーリーだ。マルチエンディングの中にはこれはこれで、という終わり方をするエンドもあるが、他のエンドや今までの授業は全て此処に至るための過程だったのだ、と合点がいく、「リトルボムガール」のベストエンドはそういう物語なのだ。

過程を経て辿り着いたあの『最後のテスト→エンディング→ラストシーン』の一連の流れには、スペクタクルなカタルシスが在った。やったぜ、やってやったぜと言ってやりたくなるような喜びと達成感があった。

本作は色々従来のじぃーま氏のゲームとは毛色が違う部分も多いが、その紡がれた物語は最終的には暖かく、優しいものであるというこの1点は決して変わらない。

Time Machine」のベストエンドを初めて見た時にも胸がじんとする感動がそこに在った。が、「リトルボムガール」はその感動と共にはっきりと開放感というものをそこに感じ取った、そんな感覚がした。

爆弾である意味も、女の子のAIであった意味も、「せんせぇ」であった意味もきちんと其処にあり、回収され活かされるじぃーま氏のストーリーテーリングが本作の味わい所のメインであるのでぜひじっくりたっぷりと堪能していただきたい。

「こういうのが見つかるから個人製作のゲームに注目するのを止められないんだよな」と改めて思い知らされることうけあいだ。

 

今作の課金要素

 「リトルボムガール」はじぃーま氏のゲームの例に漏れず基本無料で全て遊べる。ただでさえ良心的なのだが今作の課金要素のラインナップは実はちょっと少ない。

任意ではない広告が出ないようにする『広告オフ』と純粋な『投げ銭』は説明を割愛するとして、今作はマルチエンディングなので「ポストアポカリプスベーカリー」では一旦お休みだった『エンディングのヒント』が復活、これはヒントを見るのに課金無しだと都度広告動画を見る必要があるところを省ける。

爆弾ちゃんとの授業は選択肢によって爆弾力・ラブ度・人間性の3つのパラメータが増減するのだが、この授業によるパラメータ変動の効果をアップさせる『いつでも授業の効果アップ』と、選択肢の結果が思わしくなかった場合に広告動画を見てその授業を受けなかったことにする『いつでも授業やり直し』。この2つは無課金でもできなくはないが行うたびに広告動画の視聴が必要で、課金することで視聴の行程を省けて文字通りいつでも手軽に恩恵を得られるようになる。

そして今回の最オススメ課金要素の『テスト11時間ごと』は本来爆弾ちゃんの性能テストは8時間、授業8回ごとに行われるがこれが11時間、11回に伸びるというもの。単純に授業回数が増えれば性能テストに必要な爆弾力のパラメータを稼ぎやすく、爆弾力が伸びないような授業や選択肢を選びやすくなりゆとりのあるプレイングができるので、まず1周プレイして何らかの結末に辿り着いた後これを課金するのが個人的にもっともオススメの手順として提案しておきたい。

 今作の課金ラインナップは以上である。

以上である。今までのじぃーま氏のゲームを全作プレイしたくらいのファンは「おや?」と思ったのではなかろうか。

「リトルボムガール」はなんと!あんなにカワイイ爆弾ちゃんのカラーチェンジ・着せ替え要素を課金要素にせずゲームプレイ中で全て行えるようにしたのである!!!!

具体的には特定の授業を受けることでパラメータに補正がかかるコスチュームチェンジと、パラメータに影響の無い趣味の外見変化・カラーリング変更の2パターンの変化を得る事ができるのだ。「Time Machine」からあったカラー変更をも今作はゲーム本編に盛り込んでいる。

これはこのご時世において結構な判断である。あれだけカワイイ爆弾ちゃんを飾り立てるのは正直、本来であれば課金の稼ぎどころであるはずだ。それを爆弾ちゃんがカワイイからこそ、そのカワイさを課金の有無で味わえる度合に差が出ないようにしたのはじぃーま氏の粋な取り計らいと言うほかなく、じぃーま氏がこういう御仁だから良いゲームを生み出し続けられ、たくさんのファンがつくしファンはちょっとでも課金したいと思えてくるんである。

なので今回は重ねて推しますが『テスト11時間ごと』だけでも購入していただければ幸いです。実際これがあるとプレイの快適さは結構違ってきますのでなにとぞ。

 

爆弾ちゃんはプレイヤーの時間をも消し飛ばすのだ

 「ポストアポカリプスベーカリー」で一旦まったりさせてからの本作、難易度もほどほどに易くなく難くなくの塩梅で、テキストメインのつくりはタップひとつで楽な姿勢でプレイするにも丁度よいのでこの記事で知って興味を持った方がいればぜひ、日々のスキマ時間を埋める1作としてでも手に取ってくれたらと思う。

 

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カレー。それすなわちナマステ。

 

核爆弾級にカワイイ爆弾ちゃんとのふれあいは、自分の価値観とかなんか色々までもを爆発させられ吹き飛ばされる衝撃の経験になる……かもしれない。

『【懲役太郎】は人生に効く』というzipを1回ちゃんと解凍しとこう、という話

 

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 ゲームブログと銘打っておきながらこのように【懲役太郎】を語り続けてもう今年も11月に入ってしまった。「だというのにこれだけ書いてまだ足りないか?」と問われれば逆にお伺いしますが足りる日は来ますか????と言わざるを得ない。【懲役太郎】は実質宇宙でありいくら探求を重ねてもキリがないほどだと思っている。

 

はい。

今回はこのように『実質宇宙』だの『人生に効く』だの便利な圧縮言語に頼った手動BOT状態を一旦止めて、せっかく文章にして語彙を尽くして書く事がちょっとできる身なのだからきちんと具体的にどこにどのように効いてるのか・効くのかというところを言語化していこう、という趣旨の話である。

丁度、この話をするにあたって使い勝手の良い単語も今年流行ったのでそれを交えつつ展開できればと思う。先に言っておくと今回もうわぁ、って位長いんですがお時間あればお付き合いください。いつも読んでくれる人ありがとうございます。

 

 

 

 前段として:「自己肯定感」と「生きてるだけで褒めてくれる○○BOT」の流行

 今年ツイッターで目にする機会があった「自己肯定感」という単語がある。読んで字のごとく自己を肯定する感情のことであり、今年8月ごろにツイッターでバズったようでありすっかり人々の意識に定着した。

「自己肯定感」がこれほど広まったのは世の人々がそれだけ興味を持ったからであり、もっと言えば人々がそれを得たいと願い、世間で慢性的に不足しているものであると言ってもよいだろう。その証左として2016年にツイッター界で爆発的に生産され今も稼働し続けている数多の「生きてるだけで褒めてくれる○○BOT」の存在がある。

今振り返って考えればあれらのBOTは

『今のままの、そのままのあなたで良い』

『今あなたが生きているというだけで立派』

『あなたは生まれてきて良かったし此処に今存在していて良い』

という「自己肯定感」をサポートするのに優秀なツールだったのだろう。

そしてこのBOTはさっきも書いたように色んなジャンルのキャラクターのガワをかぶされて爆発的に生み出され、4桁・5桁のフォロワーを得るBOTがザラに存在するようになった。

「自己肯定感」の単語が広まる前から、この感情が潜在的に不足・欠落している人々がいかに多かったかがわかるというものだ。数年前からツイッターに生息する人間達は【今ここに存在しているありのままの自分】を認めて欲しかったんである。

そして今年「自己肯定感」の言葉が多大なる共感をもって広められた以上、BOTではこの感情で満たされたいという人間達の需要に真に応える事は叶っていないと言えるだろう。満たされているのなら「私もそう」ではなく「私もそうだった」になるはずであり、過去のものになった感情ならばここまで人々が共有して広がってバズる事にはならないはずなのだから。

 

【懲役太郎】を通して自分を再評価する

 この前置きを踏まえた上で先に結論から言ってしまうと【懲役太郎】というコンテンツ・存在は「自己肯定感」に覿面に効く。何故ならば先述したような『今あなたが日々を生きているだけで充分立派なことだ』という言葉は懲役太郎を通して発せられると上っ面を滑るような軽いものではなくなるからだ。

かの【ゴルンノヴァ総統】が以前に”【懲役太郎】は濃厚な「しくじり先生”と例えた発言をした事がある。これを思い出す度にちょっと罪悪感に駆られるような気分になるが正直これは部分的に正しい。失敗した者を見て「自分はそれよりまだマシだ」と安心する、そういう形の楽しみ・娯楽は実在し、そういう方向性で視聴するにこれほど合うコンテンツも無い、【懲役太郎】をそんな存在として扱う層もあることはフェアに、客観的に評価せねばなるまい。『前科三犯』という社会的に思いきりしくじっている者を比較対象にすればほぼ大体の人間は犯罪を犯すことなく社会を生きられているので前科・前歴のある人間よりは自分は偉いし立派。そのような方向性での「自己肯定感」の獲得を助けられている面もあるだろう。

 が、再三申し上げたく思う。そのように下に見て安心する楽しみ方で終わってはまだ早い。まだ浅い。その程度の効果でしかないなら『人生に効く』などとデカい事言うわけがない。そこからもう1段思考を進めてこそ意味がある。

嘆かわしいことに【懲役太郎】に対して「犯罪者風情が」などと心無い言葉を書き込む輩が居る。これはまったく彼という存在とコンテンツを理解していない者の言葉だ。

その"風情が"などとインスタントに見下した相手と、翻って自分の生活・有り様を比べて考えて、はたして自分が全てにおいて優越しているなどと本当に思えるだろうか?

ここにまで考えが至ると途端に効いてくるんである。バーチャルかつ模範囚なので所々現実の刑務所より融通ついてるなーという部分はあるにせよ、太郎さんは囚人である。

刑務所の食事について調べた事はあるだろうか。囚人より良い食事を日々摂れているだろうか?何となく面倒だしとジャンクなフードばかりで済ませてないか?

懲役太郎アカウントの起床点呼は朝6時30分である。囚人は朝も早ければ夜も早い。やってくる明日に抗ってダラダラ夜更かしして、訪れた今日から目を背けてダラダラ遅起きを繰り返してはいないか?

太郎さんは何紙か新聞を取って舎房の中で読み込み、生放送で話すためのネタをしっかり練って仕上げていつも臨んでいる。シャバの自分はどうだろう。日々のニュースをただ右から左に流しているだけで終わっていないか?

 

 「生きてるだけで褒めてくれる○○BOT」で人々が癒されながらもそこから真に救われなかったのは、『今のあなたのままで良い』も確かに大事だがそこから先を促す言葉をBOT達は踏み込めなかったから、という点もあったんじゃないかと思っている。

『今シャバを生きている皆さんは充分立派ですよ』という太郎さんのメッセージを受け取った上で、「でも本当にそうだろうか?」「もっと自分は・世界は良くしていけるのではないか?」を自力で気付き至ることも実はちょっと遠回しではあるが促されているんである。

『前科三犯・893番』という彼を通して自身を顧みると、結構シャバの人々、至らない所が見えてくるのではないだろうか。そしてその至らないところが分かれば「じゃあまずそこをちょっと改善してくとこから始めてみるか……」というとっかかりに手をかけられるはずだ。

そうしてきちんと手の込んだ食事を摂ったり、きっぱりと夜更かしを切り上げ布団に入ったり、ちょっとしたニュースに考えを巡らせたりしていく事で人間というのは「ちゃんとできた、できてて偉い」と自己を肯定する感情を心の奥底までしっかり響かせ浸透させる事が叶うのではないか?

結局、自分自身が自分を認められる何かがなくては根本的解決にはならない。その根本的解決に至るための口火を切る理由づけ、自分を小さく小まめに褒めるための手がかりに【懲役太郎】という存在は非常に効果的であるのだ。

 

現代における夢の成就の難易度と【懲役太郎】

 【懲役太郎】は失敗者であり成功者でもある。『前科三犯・893番』である彼は50代のおじさんにしてVtuber界においてチャンネル登録者数約8万という(まだまだこんなもんで収まる御仁じゃないでしょう、という気はすれど)実績を持ち、『JODY BOY』なるアパレルブランド(https://www.jodyboy.shop/)とのお仕事案件まで取りつけるに至った。

 『人生何が起こるかわからない』

『何をするにも遅すぎるということは無い』

『諦めなければ夢は叶う』

実際に現在進行形で成し遂げている彼がこれらの言葉を口にするとそれはもう途方も無い説得力なんだよな、と思い知らされるばかりだ。そんな事が叶うもんなんだな、と感動するような事柄をどんどん叶えていく懲役太郎さんと協力者・俺太郎先生の向上心、志、バイタリティには圧倒されるし日々感服している。とてもすごい。

すごいが、ここもだ。ここももう少し掘り下げて考えていくと、今は太郎さんのような過去を持つ人であろうとも、がむしゃらに誠実に頑張っていったら世界に爪痕残せるようなすごい事を成し遂げ、証を打ち立てる事ができる。それほど今の時代というのは何だかんだ言われながらも自由であり、色々な事のハードルが下がり、手が届きやすくなっている。

【懲役太郎】はそれを体現し、可視化しているのだ。彼を見ていると、どうだろう。とびっきりのスターダムとまでは言わなくても、遠い日に淡く抱いて諦めた夢のひとつふたつ、今だったら案外やってみたら叶うかもしれないと思えてこないだろうか?

 この主張は今まさに、自分が裏付けている、裏付けようとしている道半ばである。

かつて自分は何かしらの『ライター』なるものになりたかった。なりたかったが文章を書くことで仕事になり飯が食えているプロの職業ライターを見て『なりたいけど無理でしょ』とやりもせず諦めていた。が、【懲役太郎】に触れるうち彼の言う"時代の波に忘れ去られていく"ものに思い当たるところがあり、外からの評価はともかくとしてとにかく書き記して遺そう。そう思って1歩を踏み出したのが今年の5月の終わりのことだ。

それが今やどうだ。書きたいようにゲームの話を書き、書きたいように今もこうして【懲役太郎】の事を書きと続けてどうなったか。それはもう、1個人が好き勝手の限りを尽くしたにしては過分では?という程の実りをおかげさまで得られている。1年足らずで。

 手を伸ばして、あがいて、そうして自分の手で小さいながらも夢を叶えられたらこれほど「自己肯定感」を得られるものも無いだろう。なんだったら【懲役太郎】をダシに叶えられる夢があるのなら、是非とも踏み出してみてはいかがかと言いたいんである。自分と同じようにライターとか、動画切り抜きとかの職人だとか、ファンアートで絵師だとか、イベント等の宣伝広報員だとか、そういう立場はもうそう遠くない距離に在る分野の夢であるのだ。ことVtuberの界隈においては。

 

信じられている、だから信じられる

 ここまで一方的にファン側が汲み取って感じ取るものが効いている、そういう話になっていたが勿論そんな方向ばっかりではない。コンテンツとしてではなく1個人として懲役太郎という男が「自己肯定感」に効くような働きかけをしてるから効くんだよという証言もすべきだろう。

色々と一般的な尺度や枠に収まらないのが【懲役太郎】であるが、中でも「Vtuber見ててもそんなムーブしてる子他に見ないぞいいんかい」と草生やしたくなるような彼の言動として『丸投げ』というのがある。

特に元警察官Youtuber・やまよし氏(@umibopolice)に対してやるのが多い。犯罪者側の視点ならこうだけど警察官側の視点でこの話するとどうなるんだろう?という話になるとちょいちょい"後はお任せしますんで"などと言ってパスを投げる。あとあのおじさん自分のリアルイベントの宣伝、苦手だからっつってファンに"丸投げしようかな"とか言うたし。自分だけじゃなかったにせよ名指しされてんのは草。

当時は「ンモー宣伝苦手おじさんカワイイなあ」などと笑いごとにして宣伝ツイートをせっせとしていたが、実はこういう言動もまた人の「自己肯定感」に訴えかけて効いてくるんである。

 そも『丸投げ』とは何か。自分で抱える何がしかの案件・タスクをそのまま他者へ任せる事である。例えば社会人として仕事をするにあたり、自分がやっている作業を他の誰かに『丸投げ』できるだろうか?できると簡単に即答はできないはずだ。

何故できないのか。丸っと横に流して任せるというのは任せた相手を「任せれば後は上手くやってくれるでしょう」と信じられないと中々できるものではないからだ。そこから逆向きに考えていくと、何かしらのやる事を全面的に任せると任せられた者は任せた相手に【自分は信頼されている】という印象を抱いたり、あるいは【自分は任されたこの作業をきっとやれる】と、自身に対する信頼を抱くように思えるようになる、つまり「自己肯定感」を得られるような大きなきっかけとなり得るのだ。

 この旨を裏付けるものとして、ある書籍より文章を引用する。

 

 とうとう私は、教えたり問題を出したりするのを止め、文句を言っていた少年たちに「では替わりにやってくれ」と彼らを前に出させ、私は少年側の席に移りました。彼らに私の苦労を体験させようと思ったのです。

 ところが、そこで驚くことが起きました。私を無視していた少年たちが「ボクにやらせて下さい」「ボクが教えます」と先を争って前に出てきたのです。そして、とても楽しそうに皆に問題を出したり、得意そうに他の少年に答えを教えたりし始めたのです。

 

引用元:宮口 幸治(2019) 『ケーキの切れない非行少年たち』新潮社(155ページ)

 

ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)

ケーキの切れない非行少年たち (新潮新書)

 

 

今年ちょっと話題に上ったあの本である。丸投げするに至る経緯はこの著者の場合、

『認知機能向上トレーニングを少年たちに施そうとしたところ反抗し続ける少年の存在により効果が上がらず最終的に投げやりになって丸投げした(※要約)』

と全然違うが"他者に作業を丸投げした事で投げられた側はかえって喜んで任された作業をこなそうとする"という事象はこれこのように立派な教養書でも言われているのだ。そしてこんなご立派な本に書かれている事を懲役太郎という男はその人生の実際の経験でこの本が出るずっと前から既知の事としているのだ。

  【懲役太郎】が行っている電話相談の2回目の時にこれに関わる話をほんの少し聞かせてもらえたくだりがある。何の話から繋がってそうなったのか詳細は忘れたが。

 

youtu.be

 

生放送アーカイブで言うとこの回のエピソードがうっすら関連してくる話である。いわゆる『組』という所は2年くらい住み込みさせて面倒を見て使いものになるように仕込む。朝が起きられないような子でも車をとんでもないぶつけ方しようとも放り出さず見限らず腰を据えて相手をし、掃除やゴミ捨てといった日常生活のスキルという人としての土台から教育を施していくそうだ。

仕込みが済んだら課長だのなんだのと役職・肩書きを作って与えて仕事を与えて、とやっていく。"それは私たちの世界では当たり前にやってた事ですよ"と言っていたが、現代社会においてその"当たり前"はもう当たり前では無くなっているんだろうなとそれを聞いて思ったわけだ。

役職を与えられ仕事を任され、という部分が無いわけではなく、『あなたに任せれば上手くやってくれるでしょう』という信頼される経験が無くなっていないか?『最悪失敗しても構わないから』という面倒を見られて恩義を感じて、信頼に応えたくなるような人と関われる機会に恵まれている者がどれほどいるんだろうか?

そういうとこだぞ、という話である。彼にとってはずっと前からやっている何でもない事なのだろうけど、彼のような【行動を伴った信頼】はもはやこの世界に足りていない。足りていないから「自己肯定感」などという言葉が流行ったんである。誰かから信じられた実感が足りないから自分自身を信じられていない、というケースもあるのだろうと思う。

そんな人に【懲役太郎】は本当に心底から効くぞ、と喧伝して回りたいんである。

「それはあなたがこうして活動しているから得られているものでしょう?」と言われそうだがそんな事無い。コメントもファン活動も表立っては行わない視聴のみに留まるいわゆるROM層と呼ばれる人に対しても等しく同じように信用して活動してるんですよあの人はよ、という話を続けてさせていただきたい。

 

 【懲役太郎】の生放送はけして全てが楽しく笑えるような話ではない。

 

youtu.be

 

この回の『分類センター』の話のように、彼の過去の壮絶な部分を吐露するような回もある。こういう回は中々つらい。その過去に対してわかったような口なんてきけるもんじゃないし簡単に寄り添えるものじゃないからしっかり聴いて考えるくらいしかできる事がないな……己の無力さが憎いな……という意味でつらい。

「腹を割る」という慣用句があるが、本当に物理的に腹掻っ捌いて臓腑を並べて晒されているような、古傷を抉って抉って血を流されているのを見ているような、「そこまでやるのか」と胸が詰まって脳を揺さぶられながら聴く回、そういうのがある。

聴く方もつらいけど話す方はもっとつらいだろう事は想像に難くない。それでも太郎さんがこういう話を打ち明けるのは昔に確かにあった事実が時代の流れに埋もれて忘れ去られていかないようにするためで、【懲役太郎】が語り継ごうとしているものを足を止めて目を背けず耳を傾け記憶に刻みつける、そうしてくれる誰かの実在を信じているからだ。

いつもの楽しい話やためになるなぁ~!という話だって、それが"誰かの何かのためになれば"という想いからであり、"迷惑に思うかもしれないけど"、"余計なお世話かもしれないけど"と謙遜して不安に思いながらもそれでもVtuber活動を通して助けられる誰かの実在を信じているからだ。

これほど他者を、人間というものを信じているのが『前科三犯・称呼番号893番』という行きつく所まで行きついた1人の50代の男の人という事実がどれほど途方も無く重たく、尊いと思ったか知れない。これが10代20代の若い子が同じ事やってたら「そんなんじゃいつか悪い人に引っかかりそう」という心配が先に来ようというものだ。太郎さんは人と世のことをたくさん知った上でそうしている。その選択に辿り着いている。

だからどうか、チャンネル登録して動画や生放送を視聴し続けて、【懲役太郎】を観測し続けてくれないか。彼の信頼に応えて彼を信じる、相互の信頼を築くに至ってくれないか。それだけで充分、太郎さんから贈られている信頼を受け止められている立場であると言えるから。

そうして、たくさんの人が彼の選択を「間違っていない」と示していて欲しい。この尊い誇りある選択を、肯定できる自分を肯定するのは誰にも許されている「自己肯定感」の獲得の手法だから。どうか。

この辺りの事考える度に大体いつもちょっと泣く。ここ感情の重い面倒くさいオタクの悪い所だと思う。

 

 コアで熱心なファンとの間にはもうしっかりとこういう信頼が築き上げられているんだな、と感じたのは第1回目リアルイベントに関する所感をこぼす太郎さんを見ていた時だ。太郎さん本人が言っていたように太郎さん個人の過去・情報として結構クリティカルなところまで明かしていたが、そこを致命的に言いふらす者は居ない。

ありがたいですねえと言っていたけれど、その時から「そりゃそうだよ」と思っていた。だってあの時おじさんあの場に居た皆を信じてあそこまで言ったんじゃん。ああまでずっしりと重みを感じる信頼を預けられたら人間ってその信頼を裏切らないように信頼を返すもんなんだよ。他の人がどう思ってるかまでは知らないけど少なくとも私は太郎おじさんのそういう所信じてるし信じられてる自分を信じられるようになったし尊敬してます。

今月分の記事、2割くらいこれ書き残しておくためにやったとこがあります。成し遂げたぜ。

 

バーチャルさんはみている(ガチ)

 SNSが多くの人間の生活の一部に組み込まれるようになり、色々なものが視覚化された。良い事もあるが悪い事もある。SNSで目立つ人は何かと輝かしいし沢山の人に注目されている。その上澄みの眩しさにあてられた末に「あの人たちと違って、自分を見てくれている人なんてきっと誰も居ないんだ」と落ち込んだ経験がある人もいることだろう。

私が【懲役太郎】を誇張でもなんでもなく全人類推してくれとうるさく言ってるのはそういう想いで孤独感に苛まれてる人にだって、あの面白おしゃべりおじさんは効くとよくよく知っているからだ。

 動画の編集とか生放送のセッティングを俺太郎先生や「係の人」に任せている分、目に見えるVtuber活動においての太郎さんがやる作業は少ない。少ないっていうかほぼ喋ることひとつが太郎さんの領分である。

ただその分というか何と言うか、太郎さんはファンの事をよく見ている。表で大っぴらに言わないだけで。50代のおじさんで老眼だからリアルタイムで反応を中々返せないだけで、生放送の後には必ず放送を自分で見返してコメントだって投げられたスパチャだってしっかり見ている。ツイッターを自分の名前でエゴサーチかけてチェックしてるしファンアートだって誰がどんな自分を描いてるか彼は全く知らないという事はないはずだ。文章の形でだって個人にもメディアにも取り上げられ書かれているのも目を通していることだろう。某組長もファンを「いつも監視(み)てる」事に定評があるが、その舎弟である懲役太郎も組長に倣うかのように結構丁寧に模ファン囚を見ている。組長舎弟てぇてぇなぁ。

前回の悩みを軸に置いた話の時にも言ったが、想って声を上げればあなたの行いは報われる。きちんと彼の目に留まる。今は電話相談もやっているので、なんだったらサシで直接声援を送ることだって叶う。その時事前にコメントつけたりして丁寧にアピールしておけば「いつもありがとうございます」ってきっと言って貰えると思うのだ。

毎月1日に手癖でpixivFANBOXの宣伝ツイートなどして遊んでいるがそれは別に私がやらなきゃいけない事でもなければ私しかやってはいけないことでも何でもないので、他の人も宣伝プレゼンしてくれたらいい。某コラ職人の模ファン囚を最近あのおじさんはいたく気に入っている。そういう方向で【懲役太郎】でちょっと遊んだっていいんである。

 勇気を持って手を伸ばせば、あのおじさんはその手を取ってくれる。そうして「私を見てくれる人がここに居るんだ!」という「自己肯定感」を得る人が1人でも増えてくれればとても嬉しいなと考えている。

ただしできれば愛と誠意は前提として接して欲しい。遠慮はしなくてもいいです。ただ太郎さんが何度も言っているように"自分がされて嫌な事は人にしない"を心掛けて【懲役太郎】というコンテンツに触れてくれたらと願っている。バーチャルの電脳体と言えとその中身はみんな現実のヒトと変わらないという事は留意していただきたい。

前提がしっかりしていれば遠慮せず甘えても大丈夫だし許されてるっていうのは今これ現在進行形で自分が示しているのでご安心ください。ここまでの文章見ていかに遠慮をなげうっているかがよく解って貰えるかと思います。いつもありがとうなおじさん。今月も許されるかはまだわかんないけどとりあえず今までは許されてるからありがとうなおじさん。

 

かように圧縮した言語を開いて並べるのは大変である

  まして『人生に効く』などとデカい事を分解したものだから出てくる要素をまとめるの今回大変だなぁと思いました。でも本当にそれだけ心の色んな所に効くと実感しているからついつい人生単位で規模がデカくなってしまうというのが今回の記事で少しでも多く伝わっていれば何よりだ。

そして重ねて言うが、この『人生に効く』という実感は一部の人間だけが得られる特権などというものでは決してない。平等に手を伸ばして届く所に存在している。

結局ここに書いたもの以外でも何でもよくて、とにかく【懲役太郎】というコンテンツに触れた人がちょっとでも楽しい思いをして、日々が良くなって、誰かや自分の事を顧みたり好きになれたりすればそれが一番大事で喜ばしい事である。

だから私はこれからも折に触れ、こう言わずにはいられないのだ。

 

懲役太郎は、人生に効く。

お後がよろしいようで。

今月は以上となります、毎度長らくのお付き合いありがとうございました。

多分来月もよろしくお願いします。

「moon」に刻まれたドビュッシー作「月の光」の傷跡と、おばあちゃんのこと色々

 ※「moon」のネタバレを含むお話です。今からSwitchで購入しプレイする予定がある人はご注意下さい。

 

oniongames.jp

 

 22年という実に長い時を経て、『扉』へと至る物語が再び人々の手に届くようになった。このSwitch移植の報せを聞いてぶったまげた者はさぞや多かったことだろう。私もその1人だったし実際この公式サイトは公開直後にアクセス過多によりサーバーがダウンした。

 あのラブデガルドの地を歩き、生きていた頃を懐古する度に必ず思い出す音楽がある。本記事タイトルにある、有名な作曲家・ドビュッシーの「月の光」だ。

この曲を起点にした「moon」の話を本当はツイッターに何個かつぶやいて済ませるつもりだったのだが、長くなりそうだったのでここに書き残しておくことにした。難儀な性分である。自分の話はいつも長い。ツイッターの1回140字では狭いなぁとしばしば思うのだ。

それを差っ引いても、「moon」というゲームはどっからどう切っても手短に済ませられないような魅力ある作品ではあるのだが。"アンチRPG"という称号が有名なゲームという認識の方も少なくないかと思うが、「moon」及びラブデリック作品の良さはそこのみに非ず、という事を言いたいんである。

当時から言われていたが、ラブデリック作品は節々に【毒】を含む。これは、そういう話だ。半分は。

 

嘘に付け込み縋らせる構図はエグくて甘い

 「moon」というゲームのオープニングは劇中劇として「fake moon」をプレイさせるという話はもはや語り尽された箇所であり本題には関わらないので端折るとしよう。この「fake moon」を遊んでいた子供=主人公(=プレイヤー)はTVの中に吸い込まれmoonワールドへと透明人間の状態で放り出されるわけだが、人々から視認されず存在を無視され途方に暮れる主人公を最初に助けてくれるのが、城下町の外に建つ1軒の家で飼い犬・タオと共に暮らす【おばあちゃん】である。

おばあちゃんは目が見えない。見えないからこそ視覚に囚われず主人公の存在を感じ取ることができた、というのは今改めて分析してみるとこのゲームが散々掲げ語る【愛】というものに対してなんとも隠喩的で皮肉が効いているような気もしてくるものだ。

自分の存在を認識できる人に「○○なのかい?」と自分の名前を(ちょっとひらがな・カタカナの表記の差にひっかかりを覚えつつも)呼ばれたので主人公はおばあちゃんのその問いに「うん」と答えるわけだが(ていうかそう答えないと進まないので)、するとおばあちゃんは『主人公』ではなく『主人公と同名の自分の孫』と勘違いして、主人公を抱きしめる。

もうね。これですよ。これがラブデリックですよ。

もちろん自分はおばあちゃんの孫本人ではない。だがそういう事にしておかないと透明である主人公はこの世界に身の置き所が無いし……『死んだと聞かされていた孫がやっと帰って来た』と思い込んだおばあちゃんの希望を砕くのはあまりにも忍びない。

いたいけな老人を優しい嘘で騙くらかす、「fake」から「real」のmoonワールドへと落ちたはずであるのに構図として偽り(fake)から始まる物語。「moon」はそんな物語から始まっているのだ。

この偽りに対する「罪悪感」と偽りにより心に希望を取り戻したおばあちゃんに対する「哀れみ」、抱きしめられ、孫のお気に入りの服を支度し、毎日話しかければ目が見えない中で作ってくれたクッキーを持たせてくれるその純粋無垢の「愛」

なんともほろ苦く毒性を感じる感情を掻き立てて傷をつけ、しかし最後には甘やかな愛おしさ、愛着をそこに残していく。これがラブデリック節である。

この刻まれた傷が「moon」プレイヤーに残っているのでおばあちゃんを見ると「泣きそう」と言う者が後を絶たず、そして彼女の家に『帰る』たびにBGMとして耳にする「月の光」がこの記憶を想起させ傷跡を疼かせる、忘れられない1曲となっているのだ。

 

 この『おばあちゃんの家に帰ると「月の光」が流れる』という点、moonのウリの1つであった『音楽ディスクを購入して自分でBGMを設定できる』システムの存在によって、結果的によりプレイヤーの脳へと丹念に刷り込まれる形になってたのでは?と時を経た今になって思う。

当たり前だがディスクを購入しなくてはその辺の外を歩いている間BGMは流れないという事であり、購入できる場所に行けるようになるまでの序盤は無音、正確には鳥の鳴き声なんかの環境音のみを聞くことになる。

そうなるとおばあちゃんの家のみならず、お城やワンダの酒場などのBGMが設定されている場所のBGMは存在が引き立って覚えやすく忘れにくい、そんな状態になっていないだろうか?ディスクのお気に入りでもなんでもないけどこれらの曲は脳内で再生しようと思えばできる、そんな既プレイ者は決して少なくないはずだ。

そして城・酒場は行かない奴は行かないが、おばあちゃんの家はアクションリミットシステムによって行動できる時間に限りがある→ラブレベルの低いうちはベッドを頻繁に使わざるを得ないため、必要に駆られて皆例外なく始めの頃は小まめに『帰る』ことになる。自然と聴く機会は皆平等に多いわけだ。心や記憶に残るのもむべなるかな、と言うものである。

 

「自立」「独り立ち」を逆手に取ったかのようなイベント進行

 もう終わりだと思った?まだだよ。

そうしておばあちゃんと"孫"としてしばらくおばあちゃんの家を拠点として暮らすわけだが、割と早いうちに主人公は『自分の家』を得る運びとなる。

家なので当然ベッドが置かれており、行動できる時間の回復とセーブは以降そこでもできるようになる。そうなるとおばあちゃんの家に『帰る』のはあまり必要ではなくなってしまうのだ。おばあちゃんの家は始まりの地であるからし概念的マップ位置としては端っこになる。となると、先へ進み世界が・行く先が広がっていくのを体感しているプレイヤーとしてはおばあちゃんの家は『今となっては利便性の悪いセーブポイントに価値が下がる。自然と少しの間向こうへは帰らなくなるわけだ。

この流れにおかしい所は何も無い。ステージが進み、拠点が移り、ステップアップを実感するゲーム的な楽しさとして美味しい所であり、おばあちゃんの傍で庇護を受けていたまだまだ弱っちい主人公が此処から少しずつ足を伸ばせるようになる、まさに「自立」の時である。

その自然な「自立」を経て気分・状態が上がっているからこそ、久しぶりにおばあちゃんの家へ『行った』時おばあちゃんがベッドで寝込んでいるのを見た時の下がりよう、落差が効いてくるのだ。

わかりますか。「moon」は罪悪感で2度刺す。

 実際におばあちゃんが寝込んだ原因は、哀れにも勇者にモンスター扱いされて殺されたアニマル達のうちの1体である「ヘビー」のソウルのせいとされているが、このイベントのトリガーは『主人公が自分の家を得る』である。もう便宜上アニマルのソウルのせいにされているだけでこのイベントに含まれるもの、というのは当時子供だった自分では考えすらしなかったが今なら深読みできるんである。

死んだと思った孫が帰って来た、と思いきや孫はまた帰ってこなくなる。そりゃあおばあちゃんの心身が再び弱ったとしても「そりゃそうだよな」となろうものだ。立派に「独り立ち」するのが悪いとは言わないけれど、自分を気にかけてくれた存在をどうか忘れないで。たまには思い出して、帰っておいで。おばあちゃんのこのイベントを通して、なんとなく諭されるような心地がしてくるのだ。

おばあちゃんが寝込んでいる間は使えずセーブ・回復地点として機能しなかったベッドが、おばあちゃんが元気になってまた使えるようになる。その事象を以って

 

「そうだね、この世界において此処【も】自分の『帰る』場所なんだよな。ずっと。」

 

……などという想いを胸に刻むわけだ。

そして、その想いの傍らに、あの優しくもちょっと胸が詰まるようなメロディが、「月の光」が存在する。2度目に刻まれる感情は、言語化するのであれば「罪悪感」「郷愁」、だろうか。

この2重に刻まれる「罪悪感」があるから、ドビュッシーの名曲たる「月の光」を聞くとなんだかちょっと、ぐっと痛みを堪えたくなるような心地がするのだろうな、というのがSwitch移植をきっかけに改めて考えた「moon」と「月の光」の話だ。

 

おばあちゃんは結局『光の扉』をくぐった?くぐらなかった?

 さて。ここから話がガラっと変わる。Switch移植が発表される前、「ゲーム夜話」というゲームの考察・語り動画のシリーズの中で「moon」が取り上げられた回があった。

 

www.youtube.com

 

該当発言が後編にあったので後編を貼ったが、前編も面白い動画なのでよければ是非視聴を。

この後編の最後の最後で、"光の扉をくぐる人々のなかにおばあちゃんの姿が見つけられなかった"と触れ、おばあちゃんはmoonワールドで1人、孫の帰りを待っているのではないか?という説を示唆している。

当時は「ああ、そうかもしれないなあ」とこの示唆に同意した。外へと解き放たれた数多のラブをよそに、1つだけ留まり、待ち続けるラブというのはなんともグランドなマザーの趣があるラブであるような気がして、『それもラブ、これもラブ』という月の女王さまのお言葉を体現しているのかもしれない。そう思っていた。

しかし今回「月の光」とおばあちゃんの事を考える内に、必ずしもそうではないのではないか?1人寂しく孫を待って残る世界線よりもっと救いのある世界線の可能性は存在しているのではないか?という考えが浮かんだのでここに提唱していきたいと思う。

 まず、考えの起点は『ラブレベル1:愛の寝起き』の存在である。「moon」はmoonワールド内のキャラクター達とのイベントをこなすか、勇者に殺されたアニマルのソウルをキャッチするかで「ラブ」を得てレベルアップするシステムになっている。

そう。イベントか、キャッチかだ。

ラブレベルの存在はおばあちゃんと遭遇してからベッドで眠りについた後、夢の中で月の女王より言い渡される。その時"お前のラブはまだ未熟"とのお言葉も聞かされる。そして夢が終わり、ふたたびおばあちゃんの家へと主人公の意識・視点が移るとそこで初めて『ラブレベルに応じた行動できる時間の制限がつく』アクションリミットシステムが機能しだす。そういうタイミングになっている。

ならばラブレベル1の分のラブは、0から1に上がった分、この世界に0.5日存在する事を許された始まりのラブは、一体どこから来たのだろうか?と疑問に思った事は無いだろうか?

"お前の"という言葉を抜き取って解釈すればこの「愛の寝起き」分のラブは主人公が始めから持っていた分のラブ、という解釈もできるだろう。

あるいは、タイミング的に"光の扉をあけておくれ"という願いと共に夢の中で月の女王さまより託されたラブ、という考え方もできそうである。

それらの方が正直しっくりくる・通りが良いのではと思わないでもない。それを承知でこの2つとは別の説を唱えよう。

 moonワールドにおいてラブとは何か?月の女王曰くそれは、

"見えないものを見る為の力

触れられなかった物に

触れる為の秘密の鍵…”

なのだそうだ。

だとしたら。だとしたらだ。

moonワールドの他の住人が見えなかった主人公を心の目で見、誰も触れることのなかった主人公を抱きしめたおばあちゃんは本当は、はじめからラブを持つ者―――”秘密の鍵”の持ち主だったのではないだろうか?

主人公がアニマルのソウルをキャッチしたように、あの時おばあちゃんは主人公のソウルをキャッチし、この世界で生きる事が許されるだけのラブを分け与えた。その結果が0.5日分の『ラブレベル1:愛の寝起き』、共に暮らすおばあちゃんに優しく揺り起こされベッドから出た、まさに寝起きのラブだったんじゃないだろうか。

そう考えると0.5日という時間もなんだか示唆的に思えてくる。

 

『明るい間は元気に外で遊んでおいで。

けれど、夜になる前には帰ってくるんだよ』

 

そういうおばあちゃんの気持ちが込められてるような気がしてこないだろうか。私はした。そんな気がした。

 鍵を持っているのならば、急ぐ必要、moonワールドの住民たちと同じタイミングで月の扉の前に集う必要も無いだろう。主人公(=プレイヤー)が現実へと帰るべき場所へ帰れたのならば、おばあちゃんのたった1人の孫(=主人公)もまた、定められた【勇者】の鎧から解き放たれて何者でもない1人の少年として帰るべき家へと帰り、そして過日の主人公と同じように迎え入れられたんじゃないだろうか。

 

”いったい今までどこに行ってたんだい…”

”さあさあこっちに来て話を聞かせておくれ…”

 

……そうして、月に至るまでの冒険譚を話したかもしれないし話さなかったかもしれない。悍ましい殺戮の物語ではなく、優しいでっちあげの作り話を聞かせる、嘘っぱち(fake)の物語で閉じるのもまた、ありえる解釈かもしれない。

そうした後に、目の見えないおばあちゃんの手を引いて少年はふたたび月へ辿り着き、おばあちゃんの持っている鍵で『光の扉』を最後に2人で開き、くぐったのかもしれないのだ。先に『扉』の外へ出たぼく達・わたし達の見えないところで。

 

 『それもラブ、これもラブ』だと言うのなら。こんな解釈をしちゃっても、おばあちゃん、許されたりしないでしょうか。

22年越しの再会、おめでとう。そしてありがとう。【毒】と同量の【愛】が常に在る、そんなラブデリックの系譜が大好きです。