【懲役太郎】を単純な『物申す系』でくくるのは不正確だし早計だと思う、という話
(※そろそろ過去記事の数が多くなってきたので当記事よりリンクは貼らないとしました。カテゴリ設定してありますので↑にある「懲役太郎」のリンクからお飛びください)
Vtuber・懲役太郎にドハマリして半年が過ぎ今年もそろそろ終わろうとしている。
せっせと推し活動をしていく中で【懲役太郎】というコンテンツは何と説明したものか、何と称するのが最もしっくりくるのか?という割と根幹のところに対する疑問を抱き、考察、分析、空想にふける事もしょっちゅうあった。
というのも、世の中には事件・事故に対して批判や注意喚起、問題周知を目的としています、というお題目を掲げたいわゆる『物申す系』というジャンルがある。【懲役太郎】はこれではないのか?という意見もほんのちょっとだが見かけた事があり、また、以前に【懲役太郎】の電話相談サービスを利用した中で「物申す系とはちょっと違うよなぁ……違うな……うん違うわそういうんじゃないわ……」などと1回口には出して見たものの違うわとひとり自己完結していたくだりもあった。何してんのこいつ
確かにそういう面もちょっとはある。自分で「物申す」という単語を出して話をする時もある。だがしかし、何かとよく燃えるそんじょそこいらの『物申す系』とははっきり言って一線を画す存在であるのが懲役太郎というおじさんであり、【懲役太郎】は『物申す系』である、という理解で敬遠するのはぜひちょっと待っていただきたい。食わず嫌いは勿体ないからちょっと待っていただきたい。
それっぽく見えるかもしれないがあなたの考えているような『物申す系』とは多分おそらくきっと違う。違うのだ。どう違うかを説明するからちょっとそこの席について話を聞いていってくれないか。
今回は、そういう感じの話である。
ネタにする以上は無策で触らず、誠実に仕込む
そもそもなぜ『物申す系』が炎上するのか。某所とか某所とかを見るに万物に通用する理屈で燃えている。すなわち、理解が浅い・ないし無い案件に対してよくわからないままの目線で外野からいっちょ噛みすると上手くいかない確率は跳ね上がる、という事だ。
この生放送の回、8分30秒ごろからの太郎さんの言い分はとても同意できるものだと思っている。『クリエイターとして世にコンテンツを発信する』という行為においては、扱う題材に対して見る側がわかりやすくツッコミを入れられるような瑕疵があるのはよろしくない。たとえば言葉・用語を間違えて使ったままそのままにしておくような、枝葉末節を疎かにするような真似をしていたらそこがもう気になって話に集中できないのだ。そんなところから雑さが透けて見え綻びを生みコンテンツの魅力や説得力は損なわれていき、いつかその内必ずコケる。それくらいいいじゃないか細かい!小さい!大げさだ!と思うかもしれないが「神は細部に宿る」のだ。つくる側が想像している以上に、受け手側はコンテンツの出来というものをシビアに見ていると考えて差し支えない。『子供だまし』は子供すら騙せないのである。
特に『物申す系』はジャンルの傾向上、より一段と気を付けるに越したことはない。批判・意見を述べるものになりがちなモノに対して荒いクオリティの『物申す系』を出せばそれはもはやただの外野の野次や罵倒と取られかねず、反発を受け炎上しかねない。そんな転び方をすれば致命的に世間から見放され一巻の終わりとなってもおかしくない可燃物なのである。
しかし世の一般的な『物申す系』はコンテンツとして出力するにあたって速さも欲しがる。他に先んじて、やあやあ我こそはこの件に物申す者であると喧伝するために急いで情報をかき集め組み立てる。
どこまで精査を甘くして労力を省き、コンテンツとして体裁を保てるかギリギリを攻める世界であり、しくじった奴から死んでいく。そんな風に個人的には見えており、端的に言って『物申す系』とは大部分がその場限りで噂話をするゴシップに過ぎない、というのが自分個人の認識である。
ここに対比の軸がひとつある。【懲役太郎】はニュースであってゴシップではないのだ。速報性を完全に捨ててはいないものの、騒ぎになって即日話題に、というやり口は避けるようにしている。ワイドショーをザッピングし各局コメンテーターの意見を、複数誌の新聞を読み込んで各社の視点をある程度押さえて生放送に備え題材を練って予め作りこんでくるのが懲役太郎というおじさんだ。この事前の仕込みがしっかりしているから、30分の生放送をリアルタイムで視聴する人々は他に意識が逸れないほどの集中を安心して得られているのである。
メディアからの情報を整頓したニュースのおさらいからお題にまつわる太郎さんが体験したり見聞きしたエピソードを絡めて、何かしら「ためになるなぁ~~」と視聴者の多くが知らない世界の話を聞かせる知識系の面を覗かせる時もあれば、ひと笑い起きるような小噺でオチをつけるエンタメ動画に仕上げてきたり、またある時は毎度お馴染みの『前科三犯・893番』の立場を活かしたいわゆる『加害者側』の知見から「こういう所に気を付けた方がいいよ」という、非常~~~に説得力のある被害予防の啓発に励んでいたりする。
「今こんな話が世間で話題になってるんですよ~!」というまさに噂話の域から出ずにろくなオチもつけられないような、ただいいように消化していくだけでは済ませない丁寧な作り込みが日々為されているコンテンツである、というのは小まめに世にお知らせしたいところである。バーチャル刑務所の模範囚は伊達ではないのだ。
生産性の無いアジテートはしない
『物申す系』という存在は、正直自分もあまり好ましい存在とは思っていない。
いくつか理由はあり、まずあの手合いは「こんな事件があったんですよ!」から始まって、大体の場合「ひどいですよね!」「許せませんよね!」という攻撃的な煽りが入るからだ。とりわけアニメ・ゲームを愛するサブカル系オタクの層においては、こういった正義感を煽って敵性存在を設定し武器を手に取らせるようなやり口はもういくらも見飽きて食傷もいいとこ、とうんざりしている者も少なくないのではないだろうか。
【懲役太郎】はこのあたりが明確に違う。彼はなるべくなるべく事件・事故に対して淡々と感情の面を一旦切り離し事実を取り出し、誰が悪い・何が悪いで片付く単純な話ではないですよね、という持って行き方をする。事実、現実というのは敵味方の二元論で全て片付くなら苦労はしないもので、誰が悪い何が悪いと石もて追い回したとて叩いて気分はスッキリするかもしれないがその後に何が残るかというと、何も無いのだ。正直。
基本スタンスとしても「私個人の意見」に留めて話しつつ、この主観に対して同意を求める口ぶりはあまり無い。視聴者、ファンへ投げかけるのは「こう思いますよね?」ではなく「どう思いますか?」が主であるのだ。意識的に煽り・誘導をかけないように舵取りしている節がある。
話を聞いた上でどう思うか・何を行動するかはいつだって視聴者個々人に委ねるようにして接して来るのが【懲役太郎】だ。そうでなければただ与えられた情報を丸呑みにして終わるばかりであり、それは非常に危うい事である、という太郎さんからのひとつの人生の先輩としての導きである。押しつけでは無くあくまで導きであり、願いと言いかえることもできる、それくらいの距離の感情であのおじさんは視聴者に接して来ている。
この導きをいっとき頓(とみ)に感じ取れ、「そこまで気遣わせてすまんなおじさん」と思わされる機会が増えた頃があった。生放送・動画の中で話す際に、単語であるとか事件の名称なんかを"ちょっと調べて見てください"という促しの発言がよく出るようになっていた時期が存在していたのだ。これは今までよりさらにもう一段、懇切丁寧に『手ずから実行させ、成果を収穫させる』という経験を持って帰らせ、その日のお題をとっかかりにし、そこから視聴者ひとりひとりの日々の色んな事柄に対してまで思考の手を伸ばさせるための、手取り足取りのレクチャーであったのだろうと自分は捉えている。
コンテンツ発信者の主観で先導し、主張を植え付け握らせて帰らせるのを目的とした『物申す系』のくくり縄ではなんとなくしっくりまとまらない存在なのがわかるだろうか。過去の記事でも述べたが、【懲役太郎】は人々を開き啓く鍵である。
間違っても誰かを傷つけるための武器ではなく、むしろ「そうしてその人を攻撃したとして何になるんですか」と人の悪意、敵意に対して心を痛め矛を収められないのかと憂うのが懲役太郎というおじさんである。この点においてはむしろ『物申す系』とは対極に位置していると言ってよいかもしれない。
何処を見て、何のために発信しているのか?
結局のところ、もうそもそもこの開始地点からして『物申す系』と【懲役太郎】はあからさまに差があるなと自分は強く感じている。
炎上する『物申す系』が1番に求めているのは、究極的には【自分の手柄】である。自分が悪を裁き正義を為したという手柄を求め続けているから、誰が悪いのか当事者でもわからないような話に『悪い誰か』を組み立てて作り、事件があれば加害者は攻撃されるべき悪だという前提から話が始まっていく。そうでないと自分が正義の側に立てないからだ。
『物申す系』に手を出す者の目的というのは、多くの場合そこではないだろうかと思っている。【正しい自分が正しいと称賛されるステージ】がこの手の輩にとって最も重視したい事であり注視している事なのである。このステージを飾り立てるためならこの者らは時に嘘を事実のように吹聴するし、自分が発信する情報の正しさを確かめる暇もケチるし、後から事情が変わって自分の正当性が揺らいだとしても殊勝に謝らなかったりするのだ。
こういう事をする『物申す系』は自身以外を大事にはしていないので、視聴しているあなたが影響を受けて身の振り方を間違えたとしても一切の責任は負わないしそもそもあなたを見てもいないのでその点に留意して視聴するべきだろう。「それでも好きなの!」と言うのであればそれはもう個人の自由でありみだりに否定するのもまた正しくないことである。
では【懲役太郎】は?再三申し上げているように、自分の過去が、経験が、【誰かの何かのためになるように】活動しているのが彼、あるいは俺太郎先生も含めた彼らの動機である。この信念があるから、犯罪者側の目線で事件を語りながらも犯罪自慢にならないようにというバランス取りを気に掛けて啓蒙に努め、他者の批判や指摘をする中でも「あんまりこれ以上言っても悪口になっちゃうから」などと言って自分の言葉に自分で酔って過激になりすぎないように、セルフで歯止めをかけられるように心掛けている。どうよ、この50余年を生きたおじさまの話術のウデ。
自分の言葉で人は動きうるのだという責任を自覚して、日々のコンテンツの中で話し続けることで聞く人にそれとはなしに手を伸べて、ときにはより個に、究極的には【あなた】ただ1人と向かい合い、その行く末を見届ける。これは『物申す系』どころかあらゆるカテゴリに属す者全てを見回したとて「そんなものは珍しい者ではなくいくらも居る」とは到底言えないものであるはずだ。
この視点の差を感じるから【懲役太郎】を観測することを止められないのである。彼から汲み取れるもの・読み取れるものは刹那の楽しさではないものが殆どだからだ。明日以降に続く何かしらの忘れ得ぬものや考え続けていくものを振り撒き、自分が与えたものを自分に触れた人々がどう取り入れ、どう至るのかを見守られている心地がするからだ。だから自分は今日も動画が上がれば視聴し、生放送があれば心待ちにして、そうして【懲役太郎】というコンテンツを好き好んで触れに行くのである。
それが時には『物申す系』を銘打っていたとしても、それは自分の知る『物申す系』とは明確に違うと感じるからだ。
などと文章を組み立てる間にも時間は進んでいたし事態はなんかこう動いた
なにせ今回は明確に比較対象を置き、比較相手を批判するような話だ。それこそ太郎さんに倣い行き過ぎた他者批判にならないように、主観を盛り込み過ぎた悪口にならないように慎重に記事作成に取り組んでいたつもりだ。
そうして頭の中から表現・語彙を絞り出している間にあのおじさんとその協力者の先生はあるひとつの楽しみを見出していたんである。
はい。
あの。わかりますかねこれ。
期せずして公式の方からオチ持って来られてるんですよこれ。
【懲役太郎】は普通の『物申す系』とは違うよね!という話をしていたらなんか向こうが嬉々として『物申す』ってタイトルに入れて太郎さんの実体験と照らし合わせて「これは私の記憶と違いますよ!」と反論してコンテンツにしてきたというね。そういうとこだぞ本当。
いやまあそれでも、それでもなおいわゆる炎上するような手元不如意の『物申す系』とは違うんですよやはり。何故W太郎さんがこの某コンテンツに突っ込みを入れているかと言えば、『実録』とあたかも脚色を含まないかのような話運びをしているけどこれが本当に実録だったらマズいどころじゃないとか、服役経験があったらまずこれは間違ってるって言える所ですよっていうポイントに対して異議を唱えているとかであって、要はフィクションを含むなら含むと正直に言ったらいかがですか、というのを自分らの動画コンテンツにして作りつつ伝えているわけであり、「この某コンテンツは悪い奴だから攻撃しましょう」などとは一切言っていないのである。この点はしっかりと留意し戒めるべきポイントなので安易な攻撃は慎まれたい。
また、実際に刑務所の暮らしを経験している立場から疑義を申し立ててはいるが、これで「太郎さんが言ってるから正しい!」と丸ごと鵜呑みにしろというわけでもない。太郎さんの話が最新の刑務所事情と合致していない可能性もあるし、太郎さんが行かない・もはや行けない類の刑務所ではそういう事になっている文化というものもあるのかもしれない、というのはちょっと気に留めて置いた方が良い。
つまりはまったくいつも通りであり、【懲役太郎】を通して『色んなこと、よく考えて下さいね』なのである。ためになるなぁ~。
本当なら【懲役太郎】は『物申す系』ではなくつまりは『○○系』なのである、とでも締めて終わろうかという予定だったのだがことこうなるとそれもちょっと違ってしまうので、よしこうしよう。
【懲役太郎】を一発でくくれるカテゴリタグというのは、きっとおそらく現状この世に存在しないのである。というかあの名状しがたい底知れぬおじさまを単純なラベルひとつで分類を済ませようなどというのが土台おこがましい話なのだ。そもそも。
【懲役太郎】が『物申す系』でなければ何なのか?それは1人1人が時をかけて思考と言葉を尽くして解き明かす人生の宿題なのである。
何せこれから数十年、Vtuberの演者とファンとしてお付き合いしていくうちのはじめの1歩が今である。今はこれが精一杯ということで、これからは君が、考えるカラス(※NHKの教育番組)。
さて。
今回で自分1人で書ける限りの事は大体書き尽したので以降は不定期ということになる。わたし、普通のゲームブログに戻ります。
この約半年の間、書きも書いたりでしたためた私の視点で観測し続けた【懲役太郎】に関する文章が、誰かの何かのためになれば幸いである。
来年も引き続き【懲役太郎】の模ファン囚として応援は続けるので縁があればよろしく構っていただければ嬉しいです。
ノンフィールド+パズルRPG「Magicus(マジカス)」はお値段以上の面白さなので買って損なし
(公式ページ)
ノンフィールドRPG、というジャンルがある。
例えば「ドラゴンクエスト」は『お城の中』という1つの画面……マップから物語が始まり、マップの中でキャラクターを動かし、城の外へと出ていけばまた別のマップへと画面が遷移していく。
ノンフィールドRPGはそのようなマップを用意せず、城なら城の1枚絵をぽんと出して施設への移動をボタンひとつで済ませ、ダンジョン探索も「進む・戻る」のワンアクションで行えるようにし、情景や状況説明はモノローグテキストでまかなう動きの少ないタイプのゲームである。PCのフリーゲーム界隈では時折名作・良作が生まれ話題になる、そんなジャンルだ。古くは「雪道」、「ダリヤ ~ Lasciatemi morire ~」、10年以内の最近では「ロードライト・フェイス」、「人類滅亡後のPinocchia」、「Helldiver」などが挙げられる。
ノンフィールドRPGは良く言えば『硬派な・シンプルなデザインやシステム』であり、悪く言えば『淡泊で無味乾燥なデザイン』、そして『戦闘が大味』あるいは『戦闘が難しい』という評価がつきがちなジャンルである。原因としては多くの場合プレイヤー側は1人きりで戦闘を展開していくという点と、先人に倣って厳しめのバランスで戦闘システムを組むという風潮、全体的なデータのシンプルさが生むカーブではなく段々で上がっていく難易度バランスあたりだろうか。
このためどうにも地味であり、不親切で、快適さに欠けるタイプのゲームではあるのだが……静かに数字をやり取りし、試行錯誤を重ねて望み、制限のある中で道を切り拓くゲームプレイにたまらない楽しみを見出すゲーマーがずるんずるん沼の底へと沈むようにしてハマりこむのもまた、ノンフィールドRPGというジャンルなのだ。
本作、「Magicus」(以降「マジカス」と表記する)はこの好きな人は好き、という尖ったジャンルであるノンフィールドRPGを『戦闘パートをパズルゲームにする』事で尖りと淡泊さへの対処を行い、様々な要素で肉付けし旨味を付与する事で楽しめるユーザーの間口を広げたピカイチに面白いゲームである。
買い切り型というだけでスマホゲーム界で埋もれがちになってしまうが、埋もれさせるのは勿体ないなと思いこうして今回執筆に踏み切った次第だ。500円でお釣りがくる安さで20時間は余裕で溶かせる良ゲー、その魅力を微に入り細に入り語っていくとしよう。
戦闘パートに豊かな選択肢を与える魔法システム
冒頭でも述べたように、「マジカス」は魔物と遭遇するとパズルで戦うことになる。
魔物の横にある数字が0になると敵のターンとなり攻撃が飛んでくる。そういつも都合良く1個消したら3つ揃うな、という盤面になるとは限らず時には何手も使ってちみちみ消すしかない地味な状況にもなり得る。ちょっとわびしい。
そんなわびしい事にならないよう、そして戦闘を有利に運び状況を能動的に動かせるようにするために魔法があるのだ。上のスクリーンショットの下部に並ぶ5つのアイコンがその魔法である。
5つセットできる枠が存在するので使いたいものを選んで入れたら出来上がり。……ではない。魔法を使うにはパズルで魔法に対応するカラーピースを消して「詠唱」を貯め、アイコンのすぐ上にある「魔素」のゲージを必要量貯めることではじめて行使できる。
1番左にセットした魔法は「魔素」がカラでも最初から使え、右に行くにつれ貯めるべき「魔素」量は多くなる。その代わり右にいくほど魔法の効果は強くなる。
これにより同じ魔法でも軽い普段使いにする人と最大威力のとっておきにする人でプレイスタイルが細かく分かれるようになる効果が出ている。回復魔法ひとつとっても、左~真ん中に配置して気軽にいつでも出せるようにするか右方に置いてキツくなるステージ後半に一気に立て直せるような運用にしていくか、などといった選択が生まれる。
魔法自体のバリエーションも豊富だ。魔物への直接ダメージや回復はもちろん、毒・麻痺・眠りの3種の状態異常を積む魔法やパズルステージへ干渉ができる魔法、ちょっとトリッキーなものとしては特定カラーの魔法の「詠唱」値を貯めるものなんていうのもあったりする。
従来のノンフィールドRPGでは単調に殴りつけるだけに終始しがちなところを完全に解決し、また、難易度の面においてもステージの魔物に効果的な魔法編成を見出すことができれば多少の無理をきかせて踏破を為し得る余地が生まれている、という点は非常にデカい。このジャンルにおいて常に懸念すべきは「同じ事の繰り返しによるダレ・飽き」であり、挑みたいステージが難しいのでレベル上げを強いられる、という展開はなるべく無い造りにしておくのが望ましいからだ。
楽しい、かつ常に頭を使う必要は必ずしも無い。状況によっては魔法で一掃し1戦くらいはサクっと片づけられる、そういう支度した上での楽ができるような快適なプレイングを実現した「マジカス」の制作者・KEIZO(@_KElZO)氏の発想とバランス感覚により仕上がった遊び心地は本当に『時間が溶ける』と形容するにふさわしい出来だ。
スキルとボードのシステムもただただ嬉しい
ゲームを進めていくと冒険を便利に・有利にするようなスキルを秘めたピースの要素が解放され、ボードにはめ込んで装備することで効果の恩恵を受けられるようになる。
ピースの内容も多岐に渡る。ステータスの底上げ、各種リソースの消費軽減、お金などの取得量アップなどの様々なパッシブ効果をボードの空きと相談して組み合わせていくわけだ。
実際に遊び進めていくと、このピースとボードは段々豪勢にじゃらじゃらセットしていけるつくりになっている。これは地味だが非常にプレイを楽しくさせるのに効いているのだ。良いボードが手に入っていくと単純にボード1つにつき付けられるピースの数が増えたり、スキルピースにはランクの概念があるのだが上位のボードはランクを上げる補助ピースが無くてもスロットにぽんと嵌めれば一発で高ランクの効果でピースを使えるようになっていたりする。
装備できるボードの枚数そのものを増やせるアイテムもあるので最終的に使えるピース数は10を超えてくる。これだけ枠があれば大体の有用なピースは取捨選択せずに使っていけるのでストレスが少ない。システム面でもピースの強さ、ランクはボードとランクを+する補助ピースに任せることで+値の違う下位から上位スキルピースへの乗り換えで古い弱いピースが溜まってごちゃつく、という事態を上手く避けている。
前項の魔法も、5枠というのはこの手のゲームにしては多めで攻撃・回復・補助と一通り携えて冒険できるようになっている。構成要素が多いならそれを組み込む受け皿も相応に多くなくては面白さは片手落ちになってしまう、という事だ。新しいピースが増えても「いや、カラのスロット無いし…入れ替え面倒だな…」ではなく「おっ、今は嵌めるとこないけどあのボードを良いものに取り換えられたら入れようかな」という考え方ができるため、モチベーションの維持、小目標の目安としてかなりいい働きをしているように感じられた。
ハウジング要素があるゲームは良いゲーム(自論)
このゲームで記事を書こうと思い立った理由のひとつが【ゲーム中で自宅を持てる】という点である。「どうぶつの森」シリーズのような自由自在の家具配置とはさすがにいかないが、これが中々どうして悪くない。買い集めていく家具ひとつひとつに実利的な効果をつけつつ、家の中に実際購入した家具の存在がフィードバックされていくことによりちょっとずつ愛着が湧いてくる感覚が気持ちいいのだ。
特に最初は寝るところすら無いので、ベッドを買うのがひとつの区切りという感じになるだろう。仮の住処の宿屋からおさらばする瞬間の感慨深さはぜひ実プレイで味わっていただきたい。
ふかふかのベッドで寝起きし、キッチンで腹ごしらえをしてから冒険へ繰り出す。この【キャラがゲームで何気なく日々を生きる感じ】は強くゲームへ親しみと好意を抱く契機になる。ジャンル上無機質な味わいになりがちなノンフィールドRPGに暖かみを与えている、やっぱりハウジング要素は素晴らしいエッセンスなのだ。
総じてデータの盛り込み・作り込みが◎、ただし惜しい点もアリ
数百円というお買い得でいいのかと思っちゃうほど、有料買い切り型スマホゲームとして損はさせません!とばかりのボリューミーな出来にとにかく感心させられるのが「マジカス」の良い所だ。
装備品ひとつとってもプレイスタイルによってより良い装備のチョイスは微妙に変わる、そんな選択の余地が生まれる程度には種類がある上に新しい装備に取り代えても装備からスキルピースを抽出する、という利用価値が残されている場合もある。事と次第によってはピース目当てで装備品を作ることもあるだろう。
ダンジョンステージも多い上に、道中のイベントもお助けキャラに遭遇・罠色々・宝箱・植物採取などなどと豊富であり、これらのイベントが失敗するかどうかは各種冒険技能の数値の高さにかかっている。この数値はレベルアップ時に振り分けることが可能だ。
全てのステージには初回踏破報酬が用意されており最初の1周に対して「よしやるか!」と言えるような希望を持たせている。この踏破報酬のみならず、「マジカス」は動きの少ないゲーム性に飽きさせないようにとにかく小まめに・複数の方法でプレイヤーに報酬をくれるのだ。ステージ中のイベントで各種くじ引き券を握らせ「くじ引き屋」で引かせたり、魚釣りをさせて釣れた魚に応じたポイントを獲得して貯め景品と交換できる「魚屋」を置き、今までのステージ内で進んだ総歩数に応じてご褒美をくれる「歩数屋」の存在により黙々とステージを歩く作業にも見返りを与えている。
ここまでやってくれればもはや戦闘がパズルであるという点を抜きにしても、ノンフィールドRPGとしてのみ見てもお金を払って遊ぶ価値は充分にあると言っていいだろう。
ただ非の打ちどころがない完璧なゲームだ!とは言いきれないのも事実なので気になった点も少し書いておこうと思う。
・段々釣りが面倒になる
上手い事タップ連打したりしなかったりして釣りゲージを左端に持っていくことでやっと釣り成功となる。最初のうちは面白かったが終始ずっとこれに付き合わされるとなるとやはりここが「楽できないかな…」という気分になった。寝転がって楽にプレイできるジャンルにありながらこの釣り要素が楽さを邪魔する点だけかみ合わせが良くなく、非常に惜しい。釣果アップよりも早いうちに釣りゲージに対して有利になるピースがあると良かったかもしれない。
・ストーリー面が若干残念
話に『一区切り』つくまではダンジョンステージ内で、物語中で仲間になるガリベ君とモナちゃんという2人との会話で賑やかな道中を楽しめていたが、『一区切り』後に次の大目標に至るまでの過程ステージにもてっきりあると思っていた会話がぱたっと無くなってしまったのにはなんだか尻すぼみだなぁと思わされた。
このジャンルから生まれる良作・名作はそのストーリー・表現が図抜けているから評価されている節が大いにある。展開上難しかったのかもしれないが、ここが手間をかけてきちんと肉付けしきれていたらもっと評価が良くなったのではないだろうか。
・慣れてくると「魔素」余りを起こす
敵の攻撃やステージ内ランダムイベントの罠で「魔素」が減るほか、宝箱の開封には少々の「魔素」を消費する必要があり、また初期から持っているHP回復アイテム(使っても無くならない)は大量の「魔素」を消費して発動させるものである。
……逆に言うと、ゲーム中で「魔素」が減る要素はこれらだけ、である。敵に攻撃される機会を減らせるよう首尾よくことを運び、普通の回復薬を用意して魔法をいつでも全種撃てるように……と周到なプレイングをしていくと「魔素」は大体常にゲージ満タンになって安定してしまう。この点はちょっぴり勿体ないかなと思った。もう少し「魔素」を支払わされるイベントがあれば「魔素」を補給できるアイテムの生きる機会も増えたのでは。
古参ゲーマーは即買いでもいいくらいかも
ゲームの話題を取り扱う超有名どころ・ゲームキャスト(@gamecast_blog)様の紹介ツイートで存在を知ったこの「マジカス」、色々語ったが総評して【買い】である。
何もかもがまだ無い状態の最序盤が難しいという声も上がっているが、話題になった今は序盤の攻略アドバイスを載せた記事も探せばあるのでちょっとの苦労はあるがそこを乗り越えてぜひ遊んでみて欲しい。
特に、この画像を見てピンときた人にとってはオススメだ。
ちなみに「マジカス」、魔物を倒して得た経験値が反映されるタイミングは『宿・自宅で寝た時』である。寝る前にステージのどこかしらで倒れると難易度によってそれまで得た経験値が減ったり全部無くなったりする。
馬小屋……無料……レベルアップのタイミングは寝た時……なんなんだこの既視感は……!?
―――つまりは、そういう事である。この理解できるまでのとっつきにくさ、歯ごたえのある難易度、豊かな各種データ。
古き良きファミリーコンピュータ時代から今に至るまでゲームに触れてきた古強者たちであれば、むしろこのゲームはなんだか手に馴染むくらいだろう。
覚えある者は今すぐストアページへ走った方が良い。楽しい数十時間がその先に約束されていることだろう。健闘を祈る。
「リトルボムガール」は文学
インターネットの大海で生まれ定着した名言・スラングの中のひとつに
というものがある。
これは、真に魂に響く作品は万の言葉を尽くそうとも語り切れるものではなく、いっそたった二文字の熟語に想いを込めるという形の方がかえって良さが伝わるものだという、一種の表現の極致である。
この偉大な先人に倣い、今回はまず言わせていただこう。
『リトルボムガールは文学』である。
定められた終わりへ向かう物語
https://play.google.com/store/apps/details?id=com.zxima.littlebombgirl
じぃーま氏(@somebow_ippan)のゲームと言えば『優しく暖かいポストアポカリプス』だが、本作はちょっとだけ毛色が違う。
タップしてゲームを始めるとまず最初に謎の物体がAI起動シークエンスなるものを行いだす。するとそこには手足の無いトルソー状態の女の子の姿がホログラムとして映る。なるほどこれがその「AI」とやららしい。見聞きする感じまるで普通の少女みたいだ。
遠隔で通信してきた、主人公を知る男の口から明かされるこのゲームのゴール地点は、「目の前にある爆弾のAIに教育を施した上で敵国をその爆弾で攻撃する事」である。国という形が存在している程度の文明がある世界というのは地味に珍しい。いつも大体そういうのが跡形も無く根こそぎ無くなった後の話なのに。
かくして爆弾の「先生」となった主人公はAIの「爆弾ちゃん」を、通信相手の男……というか男の上についてるお偉いさんからの定期テストをクリアして優秀な爆弾へと育てるべく"授業"を行う。テストをクリアできないとその時点で爆弾は投下されゲームを終わらされるが、だからってテストをクリアし続けても最終的には爆弾は投下される。これは絶対に変わる事はない。引き延ばす事はできる。でもエンドレスにはできない。いつか来る"その時"のためにすべき事をしなくてはならない、この情緒に溢れた設定のすごさは文字に起こすだけでは伝わりにくいことだろう。
本作は今までのじぃーま氏のゲームには無かった【絶対の別離が横たわる物語】なのだ。
爆弾ちゃんがカワイくて世界が爆発しちゃいそう
【絶対の別離】のほろ苦さを引き立てるには、別れを約束された相手に対して好感や愛着を抱かないことにはどうしようもない。どうでもいい相手と離れ離れになったってそこにドラマは生まれないのだ。では少女の顔をしたホログラムAIの爆弾ちゃんはどうなのか?正直にハッキリ言ってやろう。
カワイイ。
ハチャメチャにカワイイ。
触れない?四肢が設定されていない?何か問題あるかね?
個人的にはじぃーま氏の作りだしたキャラの中でいっちばんカワイイと!!!思っています!!!
あんまり賢くないような感じの、あどけなくて表情もコロコロ変わって楽しくなければむくれて照れれば頬を染める、その仕草が全体的に非の打ちどころ無くカワイイが、自分が一番最も素晴らしくカワイイんだよとハートを射貫かれたのは、上の画像にあるように爆弾ちゃんは主人公を「せんせぇ」と呼ぶ点だ。
「先生」ではなく「センセイ」でもなく「せんせー」とかでもなく、「せんせぇ」。
この表記ひとつで舌っ足らずでちょっとあざといカワイさというのがよく伝わる。じぃーま氏の腕前が光っているのを感じて欲しい。
こうしたカワイイ・カッコいいなどの【キャラクターに魅力があるか?】はシミュレーション系、ストラテジー系のような個の無いゲームジャンルで無い限りはおろそかにせず考えておかねばならない要素だろう。キャラが魅力的だからたくさん一緒にいたくなり、幸せにしてやりたくなり、結末を見届けてやりたくなる。
じぃーま氏のゲームはどれもその点が非常に良くできている。皆素敵で、皆カワイイのだ。その極致が爆弾ちゃんと言っても過言ではないだろう。なるほどこれが無機物萌えってやつだな!
「せんせぇ」と爆弾ちゃんの物語をプレイヤーは観ている
「Time Machine」の頃はゲーム内の主人公という存在はシンプルでありどんな存在か情報は出てこず、主人公はそのままゲームを操作するプレイヤーと同一と言ってよい構図になっていた。
そこからいくつかの作品を経て辿り着いた本作では主人公である「せんせぇ」はプレイヤーとはきっぱりと別の存在として描かれている。
というのも、授業を進めていくと判明するのだが爆弾ちゃんと「せんせぇ」はそれぞれひとつの秘密を抱えているのだ。
ネタバレなのでもちろんハッキリとはここでは書かないが、正直爆弾ちゃんの秘密はプレイヤーの想像のつく範囲の秘密であるのだが、「せんせぇ」の秘密が初めてオープンされた時、「じぃーま氏のゲームの中でも結構シリアスな話だなこれ……」と思わず唸ってしまった。
そしてその秘密が存在する以上、プレイヤーは「せんせぇ」にはなりきれない。きっぱりと剥離しているのだ。「せんせぇ」の秘密は「せんせぇ」と爆弾ちゃんだけが共有できるものとして扱われるのがプレイしていると見てとれることだろう。
この秘密がマルチエンディングである本作のエンティング条件にも大きく影響を及ぼしている。迫る爆弾性能テストの期限の中で、1人の男と1つの爆弾が抱えた秘密に対してプレイヤーはどういう結末へ導いていくのか?というシリアスな緊張を味わいながら、爆弾ちゃんへ施す総数99の授業を通した彼らのやりとりをテキストで読んでいく。
授業では選択肢が発生するので単純にテキストが99本あるわけではなく、実際はもっともっと分岐する分、文の量は豊かだ。今までのじぃーま氏の制作したゲームの中でもぶっちぎりでテキスト量は多いと思われる。
形こそアドベンチャーゲームと銘打たれているが、「リトルボムガール」はこのたっぷりの文章量によって、ひとつの小説のような、あるいは映画のようなものに仕上がっていると言ってもいいくらい本作はストーリー性が高く、遊びごたえ・読み応えを強く感じられる。
今回のタイトルにもしたが、「リトルボムガール」は文学である。
「DropPoint」のロボット君との疑似親子めいた関係も中々に文学であったが、今作はそれ以上に文学だ。授業の中で交わす言葉の端々に爆弾ちゃんの心境がほんのり滲み出る瞬間の、AIでありながら情緒あふれるその精神性はある種の美しささえ感じる時があった。
そしてストーリー性が高いからこそ、声を大にして主張したい事がひとつある。
「リトルボムガール」は必ず、必ず!ベストエンディングを!見よ!
本作の割と大事なところなので文字サイズを大きくして主張してみた次第である。
これもネタバレもネタバレなので遠回しに語らざるを得ないが、本作に限ってはベストエンディングまで至って初めて1つの物語の終わりとして幕を降ろせる。そういうものになっていると感じられるストーリーだ。マルチエンディングの中にはこれはこれで、という終わり方をするエンドもあるが、他のエンドや今までの授業は全て此処に至るための過程だったのだ、と合点がいく、「リトルボムガール」のベストエンドはそういう物語なのだ。
過程を経て辿り着いたあの『最後のテスト→エンディング→ラストシーン』の一連の流れには、スペクタクルなカタルシスが在った。やったぜ、やってやったぜと言ってやりたくなるような喜びと達成感があった。
本作は色々従来のじぃーま氏のゲームとは毛色が違う部分も多いが、その紡がれた物語は最終的には暖かく、優しいものであるというこの1点は決して変わらない。
「Time Machine」のベストエンドを初めて見た時にも胸がじんとする感動がそこに在った。が、「リトルボムガール」はその感動と共にはっきりと開放感というものをそこに感じ取った、そんな感覚がした。
爆弾である意味も、女の子のAIであった意味も、「せんせぇ」であった意味もきちんと其処にあり、回収され活かされるじぃーま氏のストーリーテーリングが本作の味わい所のメインであるのでぜひじっくりたっぷりと堪能していただきたい。
「こういうのが見つかるから個人製作のゲームに注目するのを止められないんだよな」と改めて思い知らされることうけあいだ。
今作の課金要素
「リトルボムガール」はじぃーま氏のゲームの例に漏れず基本無料で全て遊べる。ただでさえ良心的なのだが今作の課金要素のラインナップは実はちょっと少ない。
任意ではない広告が出ないようにする『広告オフ』と純粋な『投げ銭』は説明を割愛するとして、今作はマルチエンディングなので「ポストアポカリプスベーカリー」では一旦お休みだった『エンディングのヒント』が復活、これはヒントを見るのに課金無しだと都度広告動画を見る必要があるところを省ける。
爆弾ちゃんとの授業は選択肢によって爆弾力・ラブ度・人間性の3つのパラメータが増減するのだが、この授業によるパラメータ変動の効果をアップさせる『いつでも授業の効果アップ』と、選択肢の結果が思わしくなかった場合に広告動画を見てその授業を受けなかったことにする『いつでも授業やり直し』。この2つは無課金でもできなくはないが行うたびに広告動画の視聴が必要で、課金することで視聴の行程を省けて文字通りいつでも手軽に恩恵を得られるようになる。
そして今回の最オススメ課金要素の『テスト11時間ごと』は本来爆弾ちゃんの性能テストは8時間、授業8回ごとに行われるがこれが11時間、11回に伸びるというもの。単純に授業回数が増えれば性能テストに必要な爆弾力のパラメータを稼ぎやすく、爆弾力が伸びないような授業や選択肢を選びやすくなりゆとりのあるプレイングができるので、まず1周プレイして何らかの結末に辿り着いた後これを課金するのが個人的にもっともオススメの手順として提案しておきたい。
今作の課金ラインナップは以上である。
以上である。今までのじぃーま氏のゲームを全作プレイしたくらいのファンは「おや?」と思ったのではなかろうか。
「リトルボムガール」はなんと!あんなにカワイイ爆弾ちゃんのカラーチェンジ・着せ替え要素を課金要素にせずゲームプレイ中で全て行えるようにしたのである!!!!
具体的には特定の授業を受けることでパラメータに補正がかかるコスチュームチェンジと、パラメータに影響の無い趣味の外見変化・カラーリング変更の2パターンの変化を得る事ができるのだ。「Time Machine」からあったカラー変更をも今作はゲーム本編に盛り込んでいる。
これはこのご時世において結構な判断である。あれだけカワイイ爆弾ちゃんを飾り立てるのは正直、本来であれば課金の稼ぎどころであるはずだ。それを爆弾ちゃんがカワイイからこそ、そのカワイさを課金の有無で味わえる度合に差が出ないようにしたのはじぃーま氏の粋な取り計らいと言うほかなく、じぃーま氏がこういう御仁だから良いゲームを生み出し続けられ、たくさんのファンがつくしファンはちょっとでも課金したいと思えてくるんである。
なので今回は重ねて推しますが『テスト11時間ごと』だけでも購入していただければ幸いです。実際これがあるとプレイの快適さは結構違ってきますのでなにとぞ。
爆弾ちゃんはプレイヤーの時間をも消し飛ばすのだ
「ポストアポカリプスベーカリー」で一旦まったりさせてからの本作、難易度もほどほどに易くなく難くなくの塩梅で、テキストメインのつくりはタップひとつで楽な姿勢でプレイするにも丁度よいのでこの記事で知って興味を持った方がいればぜひ、日々のスキマ時間を埋める1作としてでも手に取ってくれたらと思う。
核爆弾級にカワイイ爆弾ちゃんとのふれあいは、自分の価値観とかなんか色々までもを爆発させられ吹き飛ばされる衝撃の経験になる……かもしれない。